311 / 334
Aria of Echoes 69
「その手続きは……お願いすることはできますか?」
弁護士は床にうずくまったままの母親を見て、それから凪に視線を戻して「承知いたしました」と返事をくれた。
携帯電話の画面に映るのは面白みも何もない文字の羅列だ。授業の際の教科書ですら読みたくない凪は、拷問を受けているようだとうめいて視線を逸らした。
その先にあるのは、膨らんだお腹に手を当てて何事か喋りかけながら絵を描く汐音だ。
たおやかな首にはネックガードが嵌められておらず、美しい傷ひとつないうなじが剥き出しになり、そこにまとめきれていない波打つ髪が数本落ちて、色気を醸し出している。
「人妻が色っぽいって本当だったんだな」
「……⁉︎ 何言ってんの⁉︎」
凪としては心の中に留めておこうとした言葉だったが、つい漏れ出してしまっていたらしい。
「あ、すまん。仕事の邪魔をする気はなかったんだ」
「〜〜っホントだよ! 集中力切れちゃった」
汐音は少し怒ったように唇を尖らせてそういうと、ベッドに転がった凪の側へと腰を下ろした。凪は汐音の指先に残るインクの汚れをこすりながら、「汐音だけでも家に帰るか?」と問いかける。
二人の家のある辺りから実家まで、日帰りで行き来できないこともない距離だったが、二人が離れがたかったことと、妊娠している汐音を長時間移動させるわけにもいかないので、この騒動が始まってからはずっとホテル暮らしだった。
画材を持ち込んでいたがそれも限度があるため、汐音は絵が描きにくそうで……
「一旦、家に帰った方が良くないか?」
「やだよ! なんで僕を離そうとするの⁉︎」
それは、普段の汐音が言いそうにないきつい口調だった。凪をひたりと見据える瞳は力がこもり、チカチカと室内の光を受けて青い煌めきを見せる。
大きく開いた瞳孔は汐音の興奮を物語り、凪の胸の内をヒヤリと凍えさせた。
「もう! そんなことするくらいなら全部相続拒否して帰ろう! 二人の部屋で……僕、いっぱい仕事するから、三人で……後継とかお金とかに煩わされずに幸せに暮らそうよ!」
普段よりも甲高い声。
それが汐音の言葉がどれほど必死なのかを教えてくる。
「僕っ……僕頑張れるよ? だから……会社なんていらないって……言って…………っ」
鼻にかかる涙声が出始めた途端、汐音は顔をしかめてうずくまってしまう。
「汐音⁉︎」
「……っ、だ、だいじょう、ぶ。少し痛んだだけ……前駆陣痛だと思う」
息を整える汐音の背中をさすりながら、凪は繰り返し読んだ育児書の中を必死に思い出し、それが汐音にとって安全かどうかを思い出す。
ともだちにシェアしよう!

