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Aria of Echoes 69

「その手続きは……お願いすることはできますか?」  弁護士は床にうずくまったままの母親を見て、それから凪に視線を戻して「承知いたしました」と返事をくれた。  携帯電話の画面に映るのは面白みも何もない文字の羅列だ。授業の際の教科書ですら読みたくない凪は、拷問を受けているようだとうめいて視線を逸らした。  その先にあるのは、膨らんだお腹に手を当てて何事か喋りかけながら絵を描く汐音だ。  たおやかな首にはネックガードが嵌められておらず、美しい傷ひとつないうなじが剥き出しになり、そこにまとめきれていない波打つ髪が数本落ちて、色気を醸し出している。 「人妻が色っぽいって本当だったんだな」 「……⁉︎ 何言ってんの⁉︎」  凪としては心の中に留めておこうとした言葉だったが、つい漏れ出してしまっていたらしい。 「あ、すまん。仕事の邪魔をする気はなかったんだ」 「〜〜っホントだよ! 集中力切れちゃった」  汐音は少し怒ったように唇を尖らせてそういうと、ベッドに転がった凪の側へと腰を下ろした。凪は汐音の指先に残るインクの汚れをこすりながら、「汐音だけでも家に帰るか?」と問いかける。  二人の家のある辺りから実家まで、日帰りで行き来できないこともない距離だったが、二人が離れがたかったことと、妊娠している汐音を長時間移動させるわけにもいかないので、この騒動が始まってからはずっとホテル暮らしだった。  画材を持ち込んでいたがそれも限度があるため、汐音は絵が描きにくそうで…… 「一旦、家に帰った方が良くないか?」 「やだよ! なんで僕を離そうとするの⁉︎」   それは、普段の汐音が言いそうにないきつい口調だった。凪をひたりと見据える瞳は力がこもり、チカチカと室内の光を受けて青い煌めきを見せる。  大きく開いた瞳孔は汐音の興奮を物語り、凪の胸の内をヒヤリと凍えさせた。 「もう! そんなことするくらいなら全部相続拒否して帰ろう! 二人の部屋で……僕、いっぱい仕事するから、三人で……後継とかお金とかに煩わされずに幸せに暮らそうよ!」  普段よりも甲高い声。  それが汐音の言葉がどれほど必死なのかを教えてくる。 「僕っ……僕頑張れるよ? だから……会社なんていらないって……言って…………っ」  鼻にかかる涙声が出始めた途端、汐音は顔をしかめてうずくまってしまう。 「汐音⁉︎」 「……っ、だ、だいじょう、ぶ。少し痛んだだけ……前駆陣痛だと思う」  息を整える汐音の背中をさすりながら、凪は繰り返し読んだ育児書の中を必死に思い出し、それが汐音にとって安全かどうかを思い出す。   

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