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雪虫6 70

「お前はこれを越える勇気もねぇだろ」  黒い筋はただの平面で、オレを阻む力なんてない。 「……でもこれ越えて殴り合ったら、この後仕事になんないじゃないですか」  ついさっき殴らないって話を出したばかりだ。オレじゃなくても覚えていられるだろうに…… 「そうやって、ここまでコケにされてそれでも理由をつけて飛びかかってこないだろ?」 「飛びかかれば満足です?」 「違う違う。お前は出来ねぇって言ってんだ。腰抜けが」    もうこれは煽りだとかからかっているだとか、そんな話じゃない! オレはこっちを見てにやにやしている藪秋を睨みつけると、ぎりぎりと奥歯を嚙み締めた。  殴りかかるのは簡単だし、目の前の男が弱くないのもわかる。でも水谷ほどじゃないし……直江よりも弱いだろう。それなら一発殴るぐらいは余裕でできる。    こっちは雪虫とのことでそれでなくとも心が落ち着かないっていうのに!   「——止まれ」    相手を威嚇するためのフェロモンを乗せての一言。  一瞬、はっと目を見開いた藪秋の体が不自然に揺れて……自分の意識外で体が固定される感覚に戸惑っているようだった。    その効果はあっという間だったけれど、殴りかかるには十分だ。   「これであんたは満足か⁉」    怒鳴りながら振り上げた拳を藪秋目掛けて……としたところで、オレの視界がずれた。   「???」    世界が傾いたようになったと思ったら拳が大きくずれて空回って、体勢を立て直そうとする前に勢いよく床へと倒れこんでしまう。   「なに が  」    足元を見ると散らかっているのはおにぎりのフィルムだ。それがオレの足元にちりばめられて……   「はは。ばーっか」 「はぁ⁉」  これは、以前に水谷に何度も教え込まれたフェイントの応用だ と、ぶるぶると震えながら気づく。  藪秋の狙いは最初からこちらで、そもそも殴り合いだとかそんな場にオレを引きずり出そうって気もなかったってことだ。煙草と煙草の汚れに気を取られて、頭に上ったオレは足元なんて確認する余裕もなかった。 「あんた……っ最初からっ」    強かに打った体をさすりながら立ち上がると、藪秋は腕時計を見て肩をすくめた。   「ああ、会議の終わる時間だ。残念だなぁ、一発くらい殴りかかってくるかと思ってたのによぉ」    残念だ残念だと繰り返しながら書類をまとめて身なりを整える藪秋は、さっきまで人の手に煙草を押し付けていたような雰囲気は皆無だった。  少しくたびれているようには見えるけれど、社会人らしいかっちりとした物腰にで先ほどまでのやり取りが嘘だったかのような足取りで控室にしていた部屋を出ていく。    からかわれただけなのかそれとも、本気で殴り合いたかったのかすらわからない。      

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