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2-②.発熱中に弁論大会と長風呂はマズい

経験上、わかる。見る限り不機嫌そうではないが、この場合は「言いたいことがないから」黙っているのとは違う。「言いたいことだらけ」だから黙っているのだ。 こうなるとこの男はひどく頑固になって、理屈と理論を並べ立て、上層部の人間を言い負かす勢いで正論を捲し立てる。正直、そうなるととても面倒だ。みんなが自分に向けて一斉に「おい、どうにかしてくれ、おまえならどうにかできるって話だろ?」という視線を送ってくる。 しかし、そんなにうまくいくものじゃない。春彦が言うことは間違っていないから。鉄壁の正論だから。「正論がすべてじゃない」とかそういう世界じゃなくなるから。 とにもかくにも、いま弁論大会などやりたくない。この理論家に、熱で弱った自分が勝てるわけがないのだ。 「いや春彦、やはり今日は甘え……」 亜紀が言おうとすると、 「──要約すると、おまえは夕方までにすべてが解決すると思っているんだな」 と、春彦がさらりと言った。 「や、そうは言って……」 「言ってるよな」 回らない頭でよく考える。まあ、言った。 「……おう。要約してしまえば、そう」 しまった。こっわ。 なにかが始まってしまう方向だ。夕方までに熱が下がる可能性の計算とか、病人がきちんと寝れない環境の悪影響とか、病人としての自分の読みの甘さに関する評論とか、そういう変な大会が……。 「よし、様子を見よう。5時ごろに決めればいいだろ」 「え」 なんか、いつもとパターンが違う。 様子を見る? 「それでいいの?」と思わず訊いてしまった。「弁論大会が始まるかと……」 「弁論大会?」 「いや、こっちの話」 亜紀はいつのまにか「戦う準備」をしてしまっていた自分に気付いて、呆れた。よくない。 「というわけで、5時」と春彦が言った。「つまり、2時間後に熱が下がっていたら解決だ。俺だっておまえが治らないより治ってくれたほうがいいに決まっている。看病したいからといって治らないほうがいいとか言い出したら、とんでもないサイコパスだ」 「サイコパスではないよな」 「サイコパスではない。ので、5時で」 「うん……おう……優しいじゃん……」 春彦らしくないといえば、ない。あの空気からして、畳みかけてくるかと思った。 「優しくはない。普通だ。ところで、少しは腹が減ってるだろ? コーンスープだったらある。お湯で溶かすやつ」 「……ん。もらう。そのくらいでちょうどいい。あと、トイレ行きたい」 「トイレ? なぜもっと早く言わない? それはもう勝手に行け。ひとりで行けるか?」 「…………行けます」 まあ、やっぱりこいつらしい。亜紀は無言のまま首を振り、トイレに向かう。 ベッドからの一歩目がびっくりするくらい重かった。奴と喋っているときはまあまあ元気でいられるのに、こうやって身体を動かすとまだまだ熱にやられているのがわかる。 ぼんやりの半分は風邪薬のせいだと思うとムカついた。この変な状況からも、早く脱したい。相手が相手だから発見が多くて楽しくないわけじゃないが、やはり「家族でもないのに」という罪悪感は消せない。 トイレを済ませてキッチンを覗くと、わざわざ湯の量を計量カップで測っている男の姿が目に入った。なんかすごい必死じゃん、と心のなかでツッコミを入れてみる。 まあ、こういうところもこの男らしいけど。 「お母さん……」 「お母さんはさすがにやめろ。お母さんならこんなのいちいち測らない。そんなとこで見てないでちゃんと座れ」 湯で溶かすコーンポタージュスープを胃に入れてから薬を飲む。シャワーを浴びたいと言うと、春彦が湯船に湯を溜めてくれた。熱があるのに風呂なんか入るなと言われるかと思ったが、彼はネットで調べて「身体が急に冷えなければいいようだ」と許してくれた。まるで、子どもが病気になった親みたいになっている。やっぱ、お母さんですね。 まだちょっと使い慣れないバスルーム。汗でベタついた肌を洗うのは、とても気持ちよかった。こんなふうにのんびり湯船に浸かるのも。ここ1ヶ月は入浴も時短ばかりで、しっかり温まることなんかできてなかった。入浴剤もなにも入れていないさらっとした湯だが、これが妙に心地いい。 亜紀は長めに湯に浸かってから立ち上がった。身体を拭いたところで「そうだ、着替えがなかった」と思って、脱衣所のドアを開けて春彦を呼ぼうとした、 ――その瞬間。 頭のなかのものが全部どこかに落ちていったような、急降下の感覚。 血の気が引くといえばそうなのだが、自分のなかで落ちていく部分とそうでない部分との境目がはっきりわかる、妙な眩暈。 亜紀はなんの身構えもできず、そのまま倒れていく。 このままじゃマズい ……と頭ではちゃんと思うのに、手足は反応してくれない。 亜紀の身体が倒れ、ドアにぶつかった。 ドアはすでに少し開いていたので、その勢いで向こう側の壁に当たり、ドン、と派手な音を立てた。 スローモーションみたいに床が近づいてくる。 近い。 それでも、手は動かない。 思わず目をつぶった。 が、床にぶつかった衝撃はなかった。 「――亜紀、」

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