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4-①.訪問者、知らない女性。と、あと……?

──日曜日の午前から夕方/亜紀視点 キーをタッチする軽快な音が響いている。 周囲は明るく、窓から太陽の光が入っているのがわかる。またずいぶん寝ちゃったのかもしれない、と思いながら目を開く。まだ頭の重みと痛みが消えていない。 タイピングの音は続く。春彦がすぐそこのテーブルで仕事をしていた。ほのかなコーヒーの香り。BGMはない。テレビもついていない。自分に気を遣っているのかもしれないと亜紀は思った。気にしなくていいのに。そのくらいの音で目が覚めたりしないのに。 「……春彦……仕事か?」 広い背中に向かって声をかける。思いのほか掠れた、弱い声になってしまった。 「ああ、起きたか、亜紀。なにか飲むか?」 「……ん……甘いのがいい」 「じゃあポカリだな。待ってろ」 春彦はにこりと微笑んで立ち上がった。亜紀が寝たままの状態でも、彼が作業をしていたPCのモニターが見える。会社のシステムの画面と、自分たちの部署が担当する顧客の業績についてまとめた資料。 気のせいだろうか。春彦の顔色があまりよくない。 「おまえ、もしかしてずっと仕事してたのか? 寝てないんじゃ……」 ペットボトルを受け取りつつ訊いてみる。 「いや、寝たよ。早起きしただけ。二度寝する気にもなれなくて。寒くなかったか?」 「……ない。毛布、ちょうよかった」 「それはなにより」 「なあ、いまからでも寝ろよ。おまえだって最近まともに寝てなかっただろ。無理すんな。俺みたいになったらどうする?」 「一度なっただろ。もうならない。現役の病人に心配されてもな」 「……そーだけど」 「買い物に行くよ。なにか欲しいものはないか?」 時計を見ると、10時。外は明るい。午前10時だ。昨日よりはまだましな時間だった。 「俺、やっぱ一旦帰りたい」 「……そうは言うが、さっき熱を測ったらまだ39度近かったぞ」 「測った? どうやって」 「脇の下に体温計を突っ込んで。ほかにどうやって?」 「まあそうか、そうだな」 やはりまったく気付いていない。寝ている自分は死人レベルの感覚なのだろう。 「せめてもう少し熱が下がっていればな……」 春彦が亜紀の額に手のひらをあてて言った。首筋にもゆっくり3秒ほど触れて確かめた。 すごく慣れた手付きだ、と亜紀はされるがままになりながら思った。この男は自分が知らないときにも、これを繰り返しているに決まっている。 「……んんん、でもそろそろ食わないとダメになる」 「なにが」 「うちの冷蔵庫の中身。つくったやつがいろいろ入ってる」 「……あ、ああ……そうか。おまえ、料理するんだよな」 自炊は節約のために始めたことだが、そのうち料理自体が好きになった。夕飯のおかずを多めにつくって、たまに弁当にしたりもする。 「あと、新聞がたまってると佳代さんが心配する」 「佳代さんて……なに……誰だよ」 「管理人のばあちゃん。けっこう仲良しなんだよ」 「ああ、ばあちゃん……そうか……新聞? 紙で読んでるのか? スマホで見ればいいのに」 「新聞紙があると使えるから。掃除とか。料理のとき油吸わせるとか」 「なるほど」 春彦は頷いたが、まだ考えているようだった。 彼の顎には、会社では見ることがない無精ひげが生えている。ひげは頭の毛より少し色が濃い。生え揃えば、きっと渋さが際立つだろう。春彦を見てきゃあきゃあ言う女性社員たちが卒倒する、と亜紀は思った。この男はまるで気にしていないが、秘書課の女子社員たちは特にこのイカした上司に夢中らしいから。 「わかった」と春彦。 「あ? なにが? 新聞紙の使い方?」 「違う。立川。俺が行く」 「え」 「おまえの着替えも、冷蔵庫の中身も持ってくる。アパートまでの道もだいたい覚えてるし、まあ、忘れていたら普通に調べる」 亜紀も、春彦を自分のアパートに招いたことがある。でも2回だけ。やっぱり気軽に呼べる距離ではなくて。 「いいの?」と、春彦は機嫌よくうんうん言った。 「おまえがそれで構わないなら」 「や、もちろん……構わない。というか、ありがたい」 「よし。おまえに粥を出したらもう行く。たまごのやつでいいか? ずっとレトルトで悪いが」 「ぜんぜんいい……」 「ざっくりでいいから、なにがどこにあるかLINEしといてくれ。なあ、その料理したやつというのは、夕飯に食えるようなものか?」 「ああ。酒の肴になるよ。春彦の口に合うかわかんないけど」 「心配ない。なんか亜紀って料理、上手そうだし」 ただの勘だが「料理的要領」がよさそうだ、と言って春彦は笑った。 「なにからなにまで……ごめんな」 親戚とかならともかく、仕事の同僚だ。そこまでする義理はない。 亜紀が心の底から謝罪すると、春彦はこう答えた。 「……なにげに楽しんでいると言ったら、病人に悪いか?」 それは亜紀にとっては肩の荷が下りる気の利いた言葉で、やはりこの男の配慮は最高だと思った。一緒に仕事をしていてもよくわかることだけど。 厳しい言葉で他人に現実を突きつける。間違いを指摘するのに容赦はない。この男が持つ正論は、割れたガラスのように尖っていることも多い。 だけど、差し伸べてくれる手は、あたたかいのだ、とても。     † チャイムの音。 ──春彦が戻ったのか? でも、春彦だったらチャイムは不要だ。 じゃあ、春彦じゃない誰か? 亜紀はまどろみから抜け出し、ぼんやりと眼を開けた。 なんでこのくらいの音で起きれた? と考えて、薬を飲み忘れていたことを思い出す。春彦に飲めよと言われていたのに。 家主は買い物に出てしまって不在だ。どうせ宅急便かなにかだろうと一度はスルーしたが、チャイムはまた鳴った。 「受け取りくらいはするべきだよな……」 だって俺は、短期とはいえ居候の身。そう思って、ベッドから起き上がった。なにせここはリビングだ。重い身体を引きずって歩いたってたいした時間はかからない。 インターフォンの通話ボタンを押した。 『────、──!』 女性。 喋っているのは日本語じゃない。

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