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4-⑤.「呼び捨て」の意味。英字新聞が自然にキまる男と友人になった瞬間

──たしか、研修3日目の昼休み。 なんとなく入った喫茶店に奴がいた。当時は喫煙可の店だったので、春彦はそこでひとり、煙草を吸いながら食後のコーヒーを飲んでいた。なお、亜紀は毎日じゃないがたまに吸う、という珍しい吸い方をしている。だから煙草の煙も平気だった。 たいして広くもない喫茶店で、席は満席。春彦は奥の4人席を独占している。そもそもこの店には常連が座るカウンター席以外、4人席しかないからだが。 テーブルにひとり、コーヒーと煙草を怪訝そうな顔でたしなむ男。 まあ、なんというか「ものすごく絵になる」としか言えない。古い映画のワンシーンみたいだ。みんながつい外見についてなにか言及したくなるのは、すごくよくわかる。なんか褒めたくなるし、そうでなくてもなんか言いたくなる系のなにか。 だけど、わかる。タブーなのだ。 「なあ、ここいい? 俺、誰かわかる?」 気を取り直して声をかける。 「……一ノ瀬 亜紀だろ。勝手にしろ。俺はもう出る」 「フルネームでどうもありがとう。さすがの記憶力。もう研修メンバー全員覚えてるとか?」 今回多いらしくて30人はいるけど、と言いながら、向かいの椅子に腰を下ろす。 「苗字くらいは」 「マジかよ」 「君については、昨日発表したレポートの内容がよかったからな。その発表者の名前ということで覚えていただけ」 「へえ……それはどうも」 「かなりよくできていた。回りくどくなく、明快だった。まあ、教官と同じ感想になるが」 誉め言葉とは裏腹の、無表情。 亜紀は日替わりランチセットを注文し、よくわからない方向を見て煙草を吸う春彦を見上げた。やっぱりかなりいい男だ。その容貌とスタイルをもってして、リーマンなんかやらなくていいんじゃないかと思うくらいに。だがもちろんそんなのは、個人の自由。 「──説教なら聞かない」 突然、春彦が言った。拗ねたような口ぶり。 「……説教? 説教ってなに?」 「そろそろこういう奴が現れるだろうとは思ってた。君が言いたいことはわかる。俺の態度をなんとかしろとか」 なるほど。ありがちだ。亜紀にまるでそんなつもりはなかったが。 「説教なんてしない。する立場でもないし」 「ふうん」 「だって剣持くん、先輩には普通だし、ビビらせてるのは同期だけだし」 しかも、言われた相手も中学生とかではないので、すぐに無礼を謝ったり、黙って去ったりする程度で終わる。同期なんていくらでもビビらせればいい、と亜紀は思っている。繰り返すが、中学生とかではないので。 「……『くん』はいらない」と春彦。やっと身体をこちらに向けた。まともに話す気になってくれたようだ。 「了解。で、まあ、剣持は……あ、春彦のほうがいい?」 「よく覚えてるな。じゃあ、まあ……下の名前で」 「まあね。──で、春彦は確かにその場の空気を悪くすることもあるかもだけど、空気をどうこうしなくちゃいけないのは合コンくらいでしょ。正式な取引の場でもない社員研修で大事なのって、空気じゃない。勉強だもん。しかも俺たちはまだ入社したてで、緊張したり不安定であったりして当然でしょ。説教って、説教する奴のほうがヘンだよ」 「緊張」そう言って春彦が笑った。「……おまえ、緊張なんかまるでしてないくせに」 が、になった。 いい感じだ。 「してるわ! なに言ってんだ。あのレポート読むときも必死。足もガクガク震えてた」 「しらじらしい嘘をつくなよ」 「マジだって。緊張を隠すのが巧いだけ」 春彦が本当に楽しそうに笑うから、亜紀は少なからずほっとした。ちゃんと笑ってくれるじゃんか、と。 亜紀のハンバーグセットが提供され、春彦の食器が下げられても、彼は席を立たずにコーヒーのおかわりを注文した。もう出ると言っていたのに。 「もしかして、待っててくれるの? 俺、食べるのあんま早くないけど」 「……ゆっくりでいい。早く行ったってヒマだし。俺、あそこに友達いないからな」 「つくろうともしてないじゃん」 「そんなことない。なんとかしようとしている……たったいま」 「いま?」 彼は肩をすくめてから、テーブルの隅にあった英字新聞を手に取って広げた。 英字新聞! (たまたまそういうのを置く店だった、というだけだが) ──その一通りの動作を含め、まさに、切り取られた映画のワンシーン。 亜紀は感想を言いたくてたまらなかったが、我慢した。だって、タブーなのだから。ひとによっては軽率に触れてくる亜紀の身長にこの男は一切触れてこないというのも、なにかしらの経験があって、なにかしらの意識があってこそできること。 結局、ランチを食べながらあれこれと喋って、オフィスに戻るのが時間ぎりぎりになってしまった。ふたりで組んで行うワークの準備が始まっている。 「すまん、余り者ふたりで組んでくれるか」 教官役の社員が、亜紀たちに向かってラフに言った。このふたりを組ませることに、特別な意図はない。でも、亜紀には全体がザワついたのがわかった。ですよネ。と思った。 その一方で、春彦はなにかを気にする様子もなく、こう言った。 「いいよな、」   亜紀はその瞬間の感情をいまもクリアに覚えている。 このときそれまでとは違う種類の好奇心が芽生えた。 それから、自分も春彦がいる「映画の世界」に入り込んだような感覚も。 「もちろん」 その興奮が漏れ出ないように、とにかくクールに答えた。 それからだ。ずっとふたりで、楽しくやっている。当時はそれぞれ別部署に配属されていたが、数ヶ月後には同じ部署になれた。ふたりで組むことになり、楽しさは増した。 そうだ、本当にいい同僚で、いい友人なんだ。 亜紀は重苦しい眠気のなか、これ以上ないくらいご機嫌な気持ちで眠りに落ちた。

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