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5-②.届いていなかった彼から自分へのメッセージ
亜紀のアパートに到着した春彦は、新聞受けからあふれそうになっていた新聞紙をまとめ、窓を開け放って換気した。それから、着替えをスポーツバッグに、おかずの入ったタッパーを紙袋に詰め込んだ。他人の部屋だが、事前連絡のおかげでそれほど時間がかからない。
着替えは多めに持っていくことにした。熱が下がりきる前に亜紀を帰す気はない。完全に治るまで、あのベッドで寝ていればいいのだ。諸々の問題はあるが、それは自分の問題。自分がなんとかすればいい。亜紀には一切関係ない。
亜紀が借りている1DKのアパートへは駅から徒歩15分ほどかかるが、その環境はとてもいい。静かでたくさんの緑に囲まれている。部屋は広めで窓が大きく、日当たりもよかった。それでいて、家賃は相場よりずっと安いと聞いている。通勤に便利とは言えないが、清潔に保たれた部屋やキッチンを見ても、亜紀がこの部屋をとても気に入っているのはよくわかった。
窓辺やデスクにはちょこちょこと小物やカードが飾られていた。ゲームセンターで取ったようなぬいぐるみがいくつか。猫が多い。なるほど、猫好きか。あのスタンプはちょうどよかったかもしれない。
とても亜紀らしい空間だ。春彦は幾度か「部屋は余っているし、うちに引っ越してくればいい」と軽く言ったこともあったが、安易に提案するのはもうやめておこうと思った。彼は、彼の秩序をとても大切にしている。その邪魔をしたくない。通勤の都合だけが、生活のすべてではないわけだし。
荷物をまとめて玄関に置き、窓を閉めると、近くの壁に掛けられているコルクボードに目が行った。絵葉書が何枚かピンで留められている。
見覚えのある絵葉書たち。
「……俺が送った葉書だ。飾っといてくれてるのか」
古風な奴だと言われながらも、春彦は旅先から亜紀に絵葉書を送るようにしていた。亜紀以外には、エミリアと乙彦だけ。さらに前はもっとたくさんの友人に送っていたが、SNSを使うようになってやめてしまった。子どもたちは外国からの手紙をとても喜んでくれるし、送る意味もあったから続けていただけだ。亜紀には……なんとなく。
ここ1年ほどは旅行さえできていない。そのせいか、絵葉書たちの存在が、ひどく懐かしく感じる。
もっと近づいて、絵葉書を見てみた。
絵葉書は現地で調達したものだ。春彦には「表面に文字を書き込める余白があるものを選ぶ」というこだわりがあった。宛名の面にも文字は書けるが、景色とともにメッセージを見てほしいので。亜紀に送るものもそういうふうにして選び、送った。
ここに貼ってあるのは3枚。オーストリア、ホーフブルク宮殿。マレーシア、ボルネオ島のグヌン・ムル国立公園。エジプト、王妃の谷。いずれも有名な観光地だが、とても気に入っている。彼も気に入ってくれているのかもしれない。
「……ん?」
自分が書いたメッセージの隣に、書いた覚えのない文章がある。
とても小さな文字だ。3枚のすべてに。
ホーフブルク宮殿
『とても綺麗だ 俺も気に入った』
グヌン・ムル国立公園 サラワク・チャンバー(巨大地下空間)
『洞窟はミステリアスでいいけど 怖くない?』
王妃の谷
『いまエジプトはかなり危険だ 春彦 どうか、無事で』
膝から崩れ落ちる、というのは、こういうことを言う。
春彦はその場に立っていることができなくなった。
自分に届かなかった返信が、そこにある。届かないことを承知で、無事を祈る言葉がある。
春彦
どうか、無事で
数文字だ。ただの、ありがちな言葉だ。
それなのに、愛おしくてしかたがなかった。
小さな文字と、ペンを持つ手を想う。
亜紀は友人で、男性で、いままで付き合ってきた女性たちともまったく違う。
それなのに。
──でも、だからこそ。
そのぬくもりを、身体の小ささを知っていることが、あまりにも特別なことに思えた。
いまさら気づいたのだ。宮島に言われて当然だ。
わかっていないのは自分だけだったのかもしれない。
俺にとって、亜紀は、ただの友人ではない。
感情を抑える? 潰す? 潰せる?
なぜ一瞬でもそんなことができると思った?
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