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5-③.眠る友人にキスをする。「友人」という定義の境界線
新宿の自宅に戻ったのは、夕方のことだった。
亜紀に一刻も早く会いたかった。しかし、彼が無防備に眠る部屋で長い時間を過ごす自信はない。多少でも気持ちが落ち着くよう、立川の同じカフェに戻って何杯かコーヒーを飲み、周辺をふらふらと散歩し、本屋で時間を潰し、世界に取り残されたようにゆったり走る各駅停車で新宿に戻った。
亜紀は寝ていた。薬をきちんと飲んだのだろう。まだ熱はありそうだが、苦しげな様子ではない。汗もかいていない。
そこに、画用紙。子どもたちが残した絵と文字。
『アキ また元気なときにあおうね。ぜったいに。』
エミリアと乙彦の連名だ。乙彦の文字は慣れていないと読解するのは難しいが、きちんとひらがなで「おとひこ」と書いてある。
「あいつら来てたのか……はは」
発熱しているというのに、亜紀はうまくやってくれたようだ(しかし、姉にはあとで問い合わせて文句を言う)。あのふたりはさんざん亜紀の写真を見ていたので、特に違和感もなかっただろう。嬉しかったに違いない。
春彦は彼の髪に手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。亜紀がここに来てからあたりまえにやるようになってしまい、もうなんの躊躇もできない。
いつもそこにあるお気に入りの泣きぼくろを確認してから、額に手をのせる。やはりまだ熱は高め。自分の手が冷えていたせいもあるかもしれない。あとできちんと測ろう。
冷えた手のひらで亜紀の熱を奪えないかと、頬や首筋に触れる。肌がとても綺麗だ。裸の彼を抱き上げたときのことを詳細に思い出すのはマズい気がするので、それはそこで強制的に終わらせる。
小さな耳たぶに触れて、もちもちと揉む。そういえば、これだって亜紀が寝ていなかったらできないことだ。普通に考えて、友人である成人男性の耳たぶを日常的に揉むかといえば、揉まない。たとえ一度揉んだとして、完全な習慣になってしまっているのはおかしい。
「はる……」
反射的に耳たぶから指を離した。亜紀が目を覚ましたと思ったのだ。でも違った。彼は目をしっかりと閉じ、一定のリズムで呼吸している。
「亜紀……起きているのか」
確認する。だが、反応はない。
「寝言か……夢の中で、俺を」
夢のなかで自分はどんなことを話しているのだろうか?
自分はこの男の眼に、どんなふうに映っているのだろう?
ふたたび、頬に触れる。左目の下にある泣きぼくろにも触れた。それから、ゆっくりと唇をなぞる。ふに、と軽く押すだけで、赤く濡れた内側が見える。白い歯が見える。
――やめたほうがいい。やめなければいけない。
でも、だめだった。屈んで、亜紀の唇に唇で触れた。熱い息が自分を拒んでいるようにも思えるが、この唇にやめろと命じられたとしても、従うのは無理だと思う。
熱い唇。喰いたくなるような赤さ。
眠りを邪魔してはいけない。でもだいじょうぶだ、彼は絶対に起きない。
頭のなかで、天使と悪魔がケンカしている。そんなふうに、ここまではっきり分裂した自分を認めるのは、春彦にとって初めてのことかもしれなかった。動揺して、混乱して。
自分にそうさせるこの男はいま、ただただ眠っている。
舌を深く差し入れて、上顎をなぞった。ん、と亜紀が小さな声を漏らす。ぴくりと震える肩。頭を撫でると、すっと身体の力が抜けたように見えた。
怯えさせて、安心させて。
その反応を喜ぶ自分に、春彦は心底呆れた。
──もうやめろ。
……あと少しだけ。
首筋にキスを落とす。薄く、跡を付ける。そこまでだ。
大きく息を吐き出す。ここでやめろ。強く抱きしめる。眠りを邪魔してはいけない。
──いま、なにを想像した?
この男との関係を完全に壊すつもりか?
でも、もし……
もし、夢の中でも俺に抱かれていたら、どれだけいいだろう。
あり得ないが、願ってしまった。
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