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6-①.夢のなかで友人とキスをすること。でも俺は「彼女さん」ではない

日曜日の夕方から深夜/亜紀視点 まどろみのなかで、亜紀は玄関のドアがばたんと閉まる音を聞いた。足音と、がさがさとした物音。きっと春彦が帰ってきたのだろう。 夜もたっぷり眠っているせいか、明るい時間は夢と現実のはざまに揺らめいていることが多い。短い夢を繰り返し見る。夢なのか現実なのか、あるいは「記憶」なのか、判断できないほどのリアリティがある。外の音が、夢の世界に入ってくるのだ。目を覚ましたいと思うのに、眠気が足を引っ張る。ぬくぬくとした沼に引きずり込まれる。 こういうときに見る夢は、いつも決まっている。街で迷う夢。……いや、行き先もわからずうろうろするしかないので、「街で迷う」でなく「街に迷う」という感じか。 その風景は、すごく見覚えがあったり、まるでなかったり。他人の姿が見えることもあるが、声をかけることはできず、ひとりぼっちだ。どんなに美しい街であっても、寂しさは拭えない。「気楽に散歩しよう」とか「そのうちなんとかなる」とかも思えなくて、ただただ早く抜け出さなくてはと焦っている。 明確な登場人物は自分だけのはずの街。 しかし、今日は違う。ひとりの男が隣にいる。 彼は亜紀の頭に手を伸ばしてきて、そっと髪を撫でた。ゆっくり、優しく。 それから、亜紀の額に手のひらをつけて、しばらくじっと動かなかった。熱を確認している? 男の手は大きくて、質量がある。ひんやりと冷たい。それがとても気持ちいい。やがて手は頬を包み込み、首筋に触れた。次に、なぜか耳たぶをつまみ、くにくにと何度か揉んだ。 なんだこれは。なぜ他人の耳を揉む? こいつは、春彦じゃないのか? 前髪が風に煽られて、サファイア・ブルーの瞳がはっきり見えた。やっぱ春彦だ。 正体がわかったら、なんだかとても安心した。ぼんやりしていた男の顔が、見慣れた顔になった。ちゃんとした春彦の顔に。いつもの笑顔に。 春彦が言う。 『今日は俺がいるから平気だ。迷子にはならない。この道をまっすぐ進もう』 嬉しくなる。 あのぐるぐる回る感じも、進んでも進んでも進めない感じもない。 春彦がいると、こうも違うのか? 『……え、でも、どこ行くの』 『どこへでも。おまえが行きたいところだったら。河原のときみたいに』 『それね。だいぶ前だけど』 『俺はよく覚えているよ。写真も見ているから』 『そっ……か』 『ん』 『なあ、……春彦』 そう口を動かしたつもりだったが、思うように喋れない。 もう街じゃない場所なのはわかる。 覚醒しているようなしていないような。動けないだけの苦しくない金縛り。 ――亜紀……起きているのか 春彦の声が聞こえた。……聞こえたと、思う。 ――亜紀? 確認。でも、応えられない。まだまだ眠気は強く、重い。 薬が連れてくる眠気は、どろりとした質量を持っている。その質量がまぶたにまるごとのしかかってくる。 ――寝言か……夢のなかで、俺を また頬に触れられる。さっきよりも温かな手のひら。指の先がゆっくりと唇をなぞる。 次にやってきたのは、ふわりとした感触。少しかさついていて、けれど、柔らかな。それは唇の表面だけをそっと擦り、そのうち亜紀の唇を開かせようとしてきた。 見えないけれどさすがにわかる。これはキスだ。 顎を持ち上げられて、口付けが深くなる。唇全体を咥えられ、はぐはぐと優しく解きほぐされた。舌が入ってきて、上顎を擦りながらゆったり、ゆったり動く。下半身が重くなる。身体のどこかを羽根の先でくすぐられたときのように、腰が浮く。戸惑う。 なのに、やめてほしくはない。不思議な身体の疼き。 とろとろ、とろけるような気持ちよさを生んでくれる。頭を撫でる手が優しい。 これも夢だ、たぶん。 なぜ春彦と? 疑問が頭のなかをぐるぐる回る。俺は、「彼女さん」じゃない。 それでこいつは平気なんだろうか。 ……じゃあ、俺は? もちろん、友人としては大好きだ。春彦ほど自分に近い人間もいない。「親友」と言える数少ない存在。でも、親友とキスなんかしない。決してしない。 ──だけど。 嫌ではないのだ。それどころか。 こんなのだめだと思う。 なのに、頭で思うように身体で拒否することができない。 唇は亜紀の唇を離れて、首筋に降りてきた。ほんの少し強く吸われて、皮膚が引っ張られるのがわかる。痛みはない。熱い。風邪の熱のせいなのか。 まだ信じられない。これは本当に春彦か? 抱きしめられてわかる。 春彦以外の誰でもない。 こうやって包まれて眠った、まだ新しい記憶。熱と眠気のはざま、眠気と覚醒の境界線。 微かに、煙草の匂い。気持ちよくて「どちら」にも決められず、ゆらゆらと揺られていたい。 どちらって、一体どれとどれのことなのか。 夢だ。 だって、現実にありえない。 ──なら、次に降ってくる唇も、味わって構わないはずだ

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