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6-③.また、深いキス。でも「これは、夢じゃない」

風呂に入り、久々に着慣れたパジャマ(前開き、綿100%、紺色の無地、ポケットの隅で小さなスナフキンが釣りをしている)を身に着け、久しぶりにしっかりした食事をして、亜紀は満足していた。 自分が料理したものを、こんなに美味く感じたことはなかった。春彦が美味い美味いと褒め続けてくれたせいかもしれない。料理が無駄にならなくてよかったし、それ以上に、一緒に食事ができてよかったと思った。この程度だったらいくらでもつくる。料理は結構好きだし、誰かが喜んで食べてくれるのならば、この上ない。 片付けは春彦がしてくれた。「薬は一応飲んでおけよ」と言われたが、熱を測ったら微熱の範囲だった。食後でなければ、たぶん平熱と変わらない。 「……いいよな。俺、平熱高いし」 薬は、飲まないことにした。 一度手に取った薬の箱を、テーブルの上に戻す。 春彦はコーヒー豆を手動タイプのミルで挽いていたが、手を止めて「──亜紀。歯磨きしてトイレに行って、もう寝ろ」と保護者的に言った。 「わかったよ、お父さん」 「もうお父さんでいい」 「え~? じゃあお父さんの言うことを聞いたら、なんかご褒美とかあるの」 まあ、本当は褒美もなにもない。世話になっているくせに、ずうずうしいこと極まりない。 でも、返事を待ってみる。 「……いいよ。なんでも聞いてやる」 しばらくして、春彦はそう答えた。 「なんでも? なんでもって、たとえばなに」 「……それはおまえが考えることだろ。まあ、なんでもだ。だから早くよくなれ」 「すごいサービス精神だな……ていうか、俺に甘いだけか」 「そう。甘いだけ。俺はもともとおまえに甘い。知らなかったか?」 「知ってたけど」 亜紀は笑った。なんとなく自分に元気が戻ってきているようだ。こうなるとうまく眠れるかどうか疑問だが、とりあえずベッドに転がった。 少しクリアになった頭でシーツの上に転がっていると、改めて変な状況だなと思う。 広すぎる友人のベッド。シーツからは、太陽の匂いがした。春彦がこまめに洗濯をしてくれている。それほど家事が得意じゃないはずなのに、亜紀が滞在しているあいだはあれこれとこなしてくれていた。 申し訳ないな、と思う。「友人」がやる範囲を超えている。でも、春彦の新しい一面を見られたのは、なんだかとても嬉しかった。職場ではなにをしても完璧で、隙がない男。その上、看病だって完璧だった。 ここまでできてしまう人間に、自分はなにを返せる? 「ほら。もう寝ろ。おまえのことだ、眠くなくても転がっていたら寝れる」 「ん。春彦もちゃんと寝ろよ。俺が邪魔なら隅に押していいから」 「邪魔じゃない」 即応。 「……うん。それなら、余計に。明日は仕事だし……俺も平熱になってたら会社行くし。もう一晩あればすっきりって気がする。わかるだろ、そういうときって」 「ああ」 コーヒーの香りが漂う。 妙な気持ちだった。なぜか、眠ってしまいたくなかった。薬はもう関係ない。友人との会話を終わらせたくなかったのだ。 「……春彦」 「ん」 「実は帰りたくなくなっている。おまえが優しいから」 沈黙。けれど、嫌な沈黙ではない。 彼はキッチンに立ったまま、コーヒーを飲んでいる。静かに。 でもきっと、そのひとくちを飲み込んだら、きっと、なにか応えてくれる。 「……好きなだけいればいい」   ほら、やっぱりな。 亜紀はなんとなくそれで満足して、目を閉じてみた。 テレビの音がない。BGMもない。また春彦が本のページを捲る音だけ。 とても落ち着く。 朝が来れば、仕事モードになれる……ならなくちゃいけない。だから、いまだけはこの時間と空間にどっぷり浸かってしまいたい。 どうか、朝ができるだけゆっくり、ここに訪れますように。 † 眠れないかもと思いつつぽやぽやしていたが、どうやら眠れたらしい。春彦が言ったように。昔から寝つきはすごくいいのだ。 亜紀が次に目を開けたときには、薄い闇が部屋を満たしていた。常夜灯のおかげで、完全な暗闇にはならない。 ベッドのスプリングが軋んだ。春彦が真後ろにいる。 亜紀はそちらに背を向けて寝ているので、彼の様子はわからない。 ──そうだった、俺はもう薬を飲んでいなかった。 だからこの程度で目が覚めたのだ。頭も胸のあたりも、とてもすっきりしている。 おそらく、治った。 春彦が同じベッドにいる。改めてそう思うと、妙に緊張した。声をかければいいのに、なにを言えばいいのかわからない。 いや、いまさらなにを。ずっとふたりで寝てたんですよね? 自分にツッコミを入れる。だけど状況が違う。いつもは完全に寝ていたので。意識があって同衾するのは初めてだ。だから。だからだ。 背後に春彦の息遣いが聞こえる。お互いの顔が見えなくてよかった。さすがに向き合って寝たフリは無理だ。バレる……いや、バレていいし、寝たフリなんかしなくていいんだけど。 状況がヘンすぎてどうしたらいいのかわからない。 眼を閉じた。寝てしまうのがいちばんだという結論に至ったので。 そして、その1秒後には眼を見開いた。 ──は? びっくりした。頭を撫でられている。……春彦に。 この男はなにを始めたんだ? あるいは、これは夢か? 混乱する。でも、間違いない。こんなクリアな夢などない。 大きな手が自分の頭を繰り返し撫でる。よく知っている手。よく見る手だ。だけど、触れることはなかなかない。 やがて、その手は耳に触れてきた。端を指先で撫でるようにしてから、耳たぶを掴んだ。力を入れず、ふにふにと揉む。夢と同じ。それから、耳の奥に指が入り込んでくる。くすぐったくて反応してしまいそうになるのを、ぎりぎりで耐えた。 なにか言ったほうがいい。 なのに、どうして寝たふりを続ける? うなじに、柔らかな唇の感触。そっと、何度も。 肩から腕を撫でる手が、骨のかたちを確かめるみたいにゆっくりと動く。 パジャマの上からでもわかる、春彦の手の熱。ただ触られているだけなのに、どくどく唸る心臓を黙らせることができない。 「ただ触られている」だけとは違うからだ。 布越しなのに、肌に付きまとうような手のひら。 ──なぜ? どうしてそんなふうに触れる?   そうしているうちに、背後から強い力で抱きしめられた。 自分まで力を入れたら、起きているとバレてしまうから、必死で力を抜く。 「亜紀……」 どうして、そんなに切なげな声で呼ぶ? 横向きだった身体を仰向けにされた。 目は開けられない。次にされることを知っているのに。 やめろと言えない。予想してしまっているのに。 自分の唇に触れてくる指先。 小さく震えながら、いくら待ってもやってこない返事を待って、音のないノックを続ける。 ──呼吸のリズムを変えたらダメだ いまこの行為をやめさせることもできるのに、できない。 降ってきたキスは夢より、いや、この前よりもっと臆病で、でも舌はもっと深くに入ってきた。舌の根に触れ、上顎を撫でる。暗闇のなかで、唾液が擦れて跳ねる音が響く。 ──この前? 股間に春彦の脚があたる。自分から擦りつけてしまいたくなる。 触れてくるのは、確かに友人だ。 友人が、どうしてこんなことを? ──もう、無理だ 「ん……んんっ……!」 上顎を舌の先で強く擦られて、思わず声を出してしまった。 「……はる、」 「亜紀……」 薄暗くてもわかる。はっきり見える。 一度たりとも見たことのない表情をした友人の顔。 「春彦……おまえ、なんで……、なんでそんな顔してんだ……」

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