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Epilogue 新宿に暮らすこと。合鍵と、保留される甘い甘い答え

──月曜日の朝/亜紀視点 「新宿に住んでるって、すっげ」 亜紀は思わず感嘆の声を上げた。 「なんで」と、隣に座る春彦。 「だって朝からこんなにのんびりできる」 「まあ、それは」 「そういう意味で、やっぱり立川は負けている……」 「そうか? ……さて、おまえはどれにする?」 やっかいな風邪ウイルスは完全に退散してくれたらしい。実にすっきりと目覚め、多少の気恥ずかしさと戦いながらふたりでマンションを出た。いまはセガフレード・ザネッティでカフェ・アメリカーノを飲んでいる。春彦はエスプレッソをダブルで。それに加えて、タコとトマトマリネのピッツァサンドを注文した。先に亜紀が選んで、春彦が真似した。 新宿。 亜紀が暮らす立川もここ数年でだいぶ発展したが、それでもやはり違う。 ここはあらゆる場所から硬い足音が聞こえる街だ。しかし、人混みに慣れた人々の歩みはとても洗練されていて、スマートに見える。他人にぶつからない最短距離にマーカーが引いてあるみたいに。 「……立川も負けてない。いいところだ」 サンドを食べ終わるころ、春彦が言った。 「いいところでは、ある」と亜紀。 「ああ。利便性だけで比べる意味はない。いい街だ。亜紀があのアパートを手放さない理由もよくわかった」 「へへ」 「しかし、仕事がきついときは、どうぞ……ご自由に……。これ」 テーブルに乗せられたのは、春彦の部屋の鍵。 「いいの?」 「……いい」 「……ありがとうございます。遠慮しないよ、俺。マジでずうずうしいよ? 新宿に住んでるのが素で羨ましくなったから、これホントに貰っちゃうよ」 「ん。それでいいです。どうぞ。別に、これと引き換えに恋人になってくれとかは言わない」 「……へえ。言わないんだ」 「言わない。待っていいなら、待つから」 「…………」 「…………」 「ちょっとは……言っていいよ」 「……ちょっとは、てな……加減が難しすぎるんだよ」 「そこはがんばろうよ」 「──ふ、」 たまらず春彦が吹き出し、大きく口を開けて笑った。それからウインクをした。「完璧」なウインクだ。ハピエン映画のエンディングみたいな。嫌味なほど決まっている。亜紀がやろうとすると絶対に両目を閉じてしまうので、器用だなあとも思った。 「風邪薬は飲まない。相性が悪いことは今回もよくわかった」 「寝ているあいだに、誰かにいたずらされるから?」 「……そう。でも、誰かがお世話してくれるなら、飲む」 「お父さん、かな」 今度は亜紀のほうが笑った。春彦が律儀に罪悪感を持っていなければいいのだけれど、と考えながら。あれは、謝ったり謝られたりというものじゃない。表現するのがとても難しいが、「悪くない思い出」的になってくれると、自分も助かる。あのやりとりがあって、いまがあるわけで、そのいまが全然悪くないから。とてもいい感じだから。 「――あ、部長。それに、亜紀さん」 聞き覚えのあるいつもの声。見上げれば、カップだけを持った宮島が立っている。 「大丈夫なんですか、体調は」 「ああ、もう平気。さんきゅな、気にしてくれて」 春彦が立ち上がった。エスプレッソもサンドイッチも平らげたあとだ。 「亜紀、俺は先に行く。宮島、ここを使え」 「もうですか? ずいぶん早いのに」 「諸々片づけたいことがあるから。──亜紀、まだ無理はするなよ。まずいと思ったら遠慮なく宮島に言え。いい連絡役ができた」 「連絡役って……宮島に悪いだろ」 亜紀がそう言うと、 「俺は構いません。むしろ、俺をスルーされたら傷つく。こう見えて意外と傷つきやすいから気をつけてあげてください」 宮島は自分の心臓を押さえながら神妙っぽくそう言った。 亜紀はけたけた笑ったが、春彦は2回ほど適当に頷いただけだった。 春彦が去った。亜紀は右手を小さく上げて、彼を送り出す。 「なんだよ、余裕だな……」 宮島が言った。どちらかというと時間に余裕がないからこそ春彦は早めに会社に向かったと思うので、亜紀には宮島の言う意味が微妙にわからない。 「ねえ、亜紀さん。本当に大丈夫でしたか? なにごともなく?」 宮島がさっきと似たような質問を繰り返した。 「うん。熱はしつこかったけど」 「いや、それも心配でしたがその心配ではなく」 「じゃあ、なんの心配」 「なんでもいいです。こう、あふれ出るなにかがあったら俺に言ってください」 「……変な奴だな。いつにも増して」 「変じゃないです。個性です」 ついでにと、亜紀は自分がダウンした金曜に片付けられなかった案件の確認をした。だが、春彦が各方面に的確な指示を出しており、滞っていることはなにもなかった。月曜のこの朝をすっと始められる状態だ。 「それはもう、お見事なもので」と、宮島。 「まあ……あいつはなんだかんだとすごいよね」 「亜紀さんに重要なポイントを任せているからですけどね」 「ん?」 「ほら、あのひとはとにかく結論を急ぐから。『待ち』が必要なものはすべて亜紀さんを経由するようにしている。亜紀さんを通すといろんなことが洗練されるから、タイムラグが無駄にならない。それで納得できるから待てるんだろうな……」 すごくよくできたタッグだ、とつぶやいて、ひとくちコーヒーを飲んだ。 「……いや……どうかな。俺、そんなすごくないし」 まあ、タッグではあるつもりだが、自分でそう言うほどの自信はまだない。 「亜紀さんに関しては待てる。あなたに関してしか待てないということですよ」 「…………」 「ほかのだれかが保留したいと言っても、絶対に待たないし、待てない。だけど、亜紀さんが保留すると言えば待てる。なぜなら、亜紀さんへの信頼が飛び抜けてすごいから。あなたから出てくる結論で満足できると思っているから」 「……そんな、に?」 「ええ。ぜひご本人に訊いてみてくださいね」   そうだ。俺は、完全に答えを保留している。 ──待つよ あいつはさらりと言ってみせたが、あの性格からは矛盾する。 いつ出るか、あるいは出ないかもしれない答えを待つのは大の苦手のはず。 ……なんだろう? とても、甘い。 「亜紀さん? 顔が赤いよ。熱、ぶり返した?」 「や、平気。ちょっと暑いかもしれない。着込みすぎた」 ――この甘い疼きの正体は? 今度は、絵葉書に返事を書いて終わりというわけにはいかない。 届かない返事にしてはいけない。 「でも、」 会社までの歩道で、宮島が言った。 どこから繋がってきた「でも、」なのかを探るために、亜紀は黙って待っていた。 「──待っているあいだがHAPPY、ということもありますから」 きっとこれはもう、仕事の話ではない。 この男は、どこか人を見透かすところがあるから。 「うん……」 「まったく、部長ってなかなか面倒な男ですよ。自分ができることは他人もできると思ってる。妙に自信家じゃない。こんなこと俺にしかできない、ってがっつり自覚してくれていたら違うのに。誰にでもあのひと並みのことができれば世話ないって」 自信家じゃないというのは、そうかもしれない。 必ずおまえは俺を好きになる、と断言してくれたら、また違ったのではないかと思う。 「宮島って……嫌いなの? 春彦のこと」 「いや? 大好きですよ。亜紀さんもでしょ?」 風は冷たいが、徐々に上りはじめた太陽が空気を暖め、寒さに包まれた緊張感を溶かしてくれている。力強い日差し。貴重な一日の始まり。 「……うん。好きだよ」 数少ない親友だから、と付け加えようとして、やめた。 いまは友人ではないステージにいて、保留はそこで行われている。 逃げ出してはいけない。 昨日まで知らなかった甘い疼き。 それから、よくわからない期待? ──けれど、そういったものはいったん全部しまい込む。今日もリーマン的に電話に出て、リーマン的にPCと向き合う。次々にやってくる課題を片づけていく。 さあ、仕事だ。 だから彼は風邪薬を飲まない1巻(本編)/END.

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