3 / 5

第三話 痛みだけが降り注いで

【第三話 痛みだけが降り注いで】  チャイムの音が鳴る。あれからずっと坂木とは毎日生徒会室の前で鉢合わせるし、嫌味も言われる。時折意味ありげに首元を撫でているのは、そこに紋様のある自分こそが洋輔の本物の番だと主張したいのだろう。正直に言うと、馬鹿の一つ覚えのようなそれらにはいい加減慣れてきた頃だ。  先日の洋輔の様子を思い出して頬に熱が灯りかける。撫でられたのも、噛まれたのも、意味が分からない。でも、校舎ですれ違った治幸先輩にはよかったねなんて微笑まれるし。何をされたのか、何の意図があったのか。本人に聞きたくても洋輔はまた以前までのようなそっけない態度に戻ってしまったから、仕事以外の雑談を振る勇気が俺にはない。どうしたものか。  今日は確か仕事に来なくていいと洋輔から言われていたはず。坂木と洋輔の生徒会室前でのやり取りを見なくて済むと思うと少し気が楽だった。HR用に出しておいたメモ帳をしまいながら念の為スマホのスケジュールアプリを確認すれば、やはり放課後の欄は空欄である。洋輔に会える時間が減ることは寂しいけれど、指示に逆らって迷惑をかける方が嫌だったから大人しく従うことにした。丁度図書館にも用事があったからと、珍しく寄り道をして帰るために普段とは違う通路へと足を向ければ、生徒会室ではない方向へ進む俺を見てまだ教室に残っていた坂木が勝ち誇ったように笑みを浮かべていた。生徒会室に入れてもいないやつが何を勝ち誇ってるんだか。  借りていた本を返却して課題用の本を数冊見繕い目的を果たしてから、少しだけ図書館で勉強をしようとノートを広げる。解いた問題の答え合わせをしようとして、そういえばボールペンのインクが切れていたのだと思い出した。ついでだから購買で文房具を調達して帰ろうと、荷物を纏めて裏庭に近い渡り廊下を進む。だから、見てしまった。見なければ良かった。ボールペンなんて部屋にも替えがあるのだから今度にすれば良かったのに。あと少しタイミングがずれていれば、何も知らないままでいられたのに。 「このペンダント、ボクにくれるの?」  人気のない校舎裏。明るく溌剌とした声が、開け放たれたままの渡り廊下の窓から飛び込んでくる。あまりに聞き慣れた特徴的な声につられて裏庭に視線を落とした。そしてすぐに後悔する。  まるで人目を避けるようにして、洋輔が一人の生徒にペンダントを差し出していた。生徒会室で会長の仕事を進めているはずの洋輔が。渡り廊下からでは洋輔が何か喋っているのかまでは分からなかったけれど、やたらと声が大きい相手の生徒は、坂木だとすぐに分かった。太陽に反射する彼の金のメッシュが目に痛い。坂木の声からは喜びが十二分に伝わってくる。大切そうに両手でペンダントを受け取っているのが嫌というほど目に焼き付いて、この時ほど己の視力の良さを呪ったことはなかった。  洋輔が、転校生に、プレゼントをしている。そこで俺は、今まで自分がとんでもない勘違いをしていたのだと気が付いた。てっきり俺は、洋輔は転校生自身も、それに役員たちも、同じように苛立っているのだと思っていたのだ。生徒会室で他の役員に坂木の愚痴を言われた時も肯定の言葉を返していたから、そう疑いもしなかったのだ。でも、違った。思い返してみれば、洋輔はこれまでに一度だって、規則違反以外坂木に関しての文句を零したことがなかった。そう、つまりそれは。  坂木本人への悪感情はない、ということ。  そう考えれば、いやむしろ、そう考えた方が納得できる。最近急に俺への態度が温厚になったのは、生徒会室前のやり取りで坂木とコミュニケーションが取れて機嫌が良かったから。治幸先輩が部屋に来た時怒っていたのは、呪縛印に何かされたと勘違いをしたのかもしれない。いつか然るべきタイミングでスムーズに解呪できるように、可笑しな小細工を仕込まれたくなかったのだろう。  それに、比較対象にはならないかもしれないけど、ずっと一緒にいた俺でさえ何かを贈ってもらったことなんてない。いや、違うか。たった二つだけ洋輔からもらったものがある。この契約印と、呪縛印。このたった二つが、俺が洋輔に貰ったもの。奇しくも同じ首元への装飾品で、ここまで雲泥の差が出るなんて。  爪が肌に食い込む痛みで、俺は右手が無意識のうちに首元へ伸びていたことに気が付いた。他の人たちは知らない。クラスメイトや生徒会役員たちはこの呪縛印まで含めて契約印だと思っていて、俺の声が出ないのはそういう病気か何かだと思っている。でも、これは契約印で、呪縛印で、一度は契約の時に自動的に、二度目は他でもない洋輔の意思で刻まれたものだ。籠められたものはきっと、祝福でも愛情でもない。それでも、俺にとってはただ二つきりの。  呪縛印のことをしているのは、俺と、洋輔と、治幸先輩。あとは両親とか、教師とか。あれ、でも、それならなんで、あの時坂木は俺の声を封じられたなんて言ったの? 「うれしい~!ボク、毎日これ身に付けるね!」  聞きたくない。封じられたのが声でなくて聴力であればよかったのにと、この時初めて俺はそう思った。でも、同時に、声が出なくて良かったとも思う。だって、そうでもなければ今ここで体裁も気にせず子供のように喚き散らしていたに違いないのだ。  弓なりに歪んだ瞳と、一瞬だけ視線が交差したような気がした。けれど、そんなことに構っている余裕は持ち合わせていない。限界だった。  今すぐに喉を掻き毟ってぐちゃぐちゃにしてやりたかった。そんなことで契約も呪縛も消えやしないとわかっていたけど、それでも。表面上だけでもいい。いっそこのまま喉も俺も壊れてしまえばいいと呪いさえした。これ以上なくぐちゃぐちゃにしてやりたい気持ちと、何よりも大切に、傷一つなくせめて残ったこの印だけでも一生抱えていたい気持ちとがぶつかり合って、ひどく気持ちが悪い。  気が付いた時には俺は自分の部屋のベッドにいて、耳を塞いだ格好で丸くなっていた。こんな体勢をとって、いったい何から身を守るつもりなのか。自分を攻撃するものなど何もないのに。あるのは、ただ勘違いしていた自分に突き付けられた真実だけだ。  気のせいかもしれない。でも、坂木のあの勝ち誇るような笑みに、俺はただ無力さを感じ、同時に自嘲の笑みを零した。安心していいよ。最初からその人は、俺のものなんかではなかったのだから。全部、俺の勘違いだったのだから。俺はきっと、ただ番として及第点だっただけなのだ。そして、それすら満たせないと見限られたから捨てられるだけの。  それからしばらくの間、俺は洋輔の顔を直視出来ずにいた。けれど、それに気が付いていたであろう洋輔は特に何の反応もなくて、そんな洋輔を見て俺はようやく我に返った。俺は元から嫌われていて、望みも何も存在していなかったのだ。今更洋輔の相手が現れたところで、恋人でも何でもない俺が何を動揺しているのか。こんなんじゃ洋輔に馬鹿だと呆れられても仕方がない。  洋輔の冷たい瞳が、態度が、俺をいつもの俺へと戻してくれた。俺の立場を再確認させてくれた。俺はただの使い魔だ。しかも、洋輔の隣に立つには実力が不十分な。そんな俺が、洋輔に何かを期待するなんて、何かを願うなんて、身分不相応だと今更ながらに思い知らされたのだ。  考え事をしていると視野が狭くなるのは俺の悪い癖だと思う。周りの喧騒を聞き取った俺が思考の波から帰って顔を上げれば、そこは既に昇降口の目前だった。いつの間にか俺の周りには部活の朝練のために登校する生徒で少しばかりの人波が出来ていた。いつもより随分と遅く部屋を出てしまったらしい。 「おはようございます、真砂くん」  小柄で可愛らしい雰囲気の少年が、俺の名前を呼んで駆け寄ってくる。声が出せないので、軽く頭を下げることで返事の代わりにするのはいつものことだ。  彼は確か、今年新しく入った風紀委員の内の一人だった気がする。この時間に登校するのは珍しいですね、と続ける彼に苦笑いを返せば、あちらで適当に解釈してくれたのだろう。文化祭の書類をまとめてあるので後で取りに来てもらえると助かります、と言って走り去っていった彼は、今朝の仕事当番だったらしい。  風紀室での朝の仕事は当番制になっていて、それとはまた別に当番制の見回りがあるから、狙って会いたい風紀委員を見つけることは難しい。こんな俺にも、声が出なくて困っていないかと丁寧に接してくれる生徒が多いから、出来ればお礼をしたいけれどどうにも上手くいかない。たまに見知った顔を見かけても、最近はずっと忙しそうにしてるし、大した用もないのに引きとめるのも悪い気がしてあまり声もかけられない。そもそも俺が会話しようとすると必然的に筆談になるので余計に時間がかかるのだ。人に話しかけることは、いつの間にか俺の中でとてもハードルが高いことになってしまっていた。 「流石、会長の人魚姫は今日もキレイだよなぁ」 「人魚姫って名前、最初は冗談かと思ってたけどな」 「先輩がしてた昔の話聞いてさぁ、マジで人魚姫じゃんって思ったもん」  ざわざわと俺の周りで生徒たちが噂話を始める。人魚姫、というのは俺の学園でのあだ名だ。  泳ぎが得意で、水の魔法が得意で、海の種族の生まれで、極め付けに声が出ないときたらもうこのあだ名しかないだろう、とは、いつだかに俺のいない所で盛り上がっていた生徒の弁だ。たしかに種族の特性として水に近い生き物である自覚はあるし、補佐とはいえ、成績優秀、眉目秀麗な生徒の集まると名高い生徒会役員の一員である自負はあるから注目を集めるのは仕方ないとも思う。それでも生徒たちに憧憬半分揶揄半分に噂をされるのはあまり気分が良くなかった。  そもそも泳ぎが得意とか海の種族とかいうのは全部が本当ではないし、噂に付いた尾びれ背びれが事実と離れていくのを否定もできないのは少し歯痒い。他の生徒会役員や風紀委員長たちのように有名税だと開き直ることがどうしても俺には出来ないでいた。  周りを取り囲む生徒たちに愛想笑いを振り撒いてから校舎に入る。俺の向かう生徒会室のある特別棟は一般生徒の出入りが禁じられているので、自然と人気はなくなっていった。その特別棟に、無理矢理乗り込んでくる生徒が最近は一人だけ、と考えて、その立場が逆転するのはいつになるのかなと、ざわざわと周りを取り巻いていた音から解放されていくのにつられて小さくため息をついた。いつの間にか力が入っていたらしく、ぐるりと回した肩の動きはすこしぎこちなかった。  生徒会室に行く前に同じ特別棟の中にある風紀室へと立ち寄る。昔は生徒会室と同じ最上階にあったらしいが、今では一階に移動している。問題の起こる場所が体育倉庫や校舎裏などの屋外が多く、外に出るのに時間がかからないように、直に外へ出られる一階に部屋を置きたいと何代か前の委員長が要望を出した為だ。それ以来風紀室は変わらず一階にあるらしい。ちなみに風紀室のすぐ隣には他の棟へ移動する渡り廊下がある。  風紀室の扉を開ければ、先程の生徒が一番に俺に気がついて笑顔であいさつしてきた。慌てて俺に渡すバインダーを取り出して、その周りにあった書類を纏めてから、俺の手を引いて廊下へと誘導する。 「ごめんなさい、来てもらったのにちょっと朝から問題が起こって風紀室の中がドタバタしてるので……」  騒がしいの苦手でしたよね、と窺うように上目使いで見つめられる。不安そうな顔をどうにかしたくて、ありがとうと大丈夫を伝えるつもりでその肩をぽんぽんと優しく撫でた。彼は一瞬きょとんとしたものの、すぐに表情を笑顔に戻して俺にバインダーを差し出した。生徒会室へ届ける書類を受け取ることが最近の俺の毎朝の仕事。  そのバインダーを受け取りながら先程ちらりと見た風紀室の中を思い出す。そういえばいつもより人が多かった気がする。委員長と副委員長の姿も見えなかった。あの二人が出払わなければいけないほどの問題が起きたのだろうかと疑問に思うけれど、何か危険があれば風紀の方から連絡があるだろうし、気にしすぎるのも良くないのかもしれない、でも何か事件が起きているなら聞いておくべきだろうか、と思考がまとまらずにぐるぐると回り始める。  彼との間に妙な沈黙が落ちてしまったのに気が付いて、俺はもう行くなと階段の方を指差す。彼ははっとしたように背筋を伸ばしてお気をつけてと声を張った。そして慌ただしく部屋の中へと戻っていく。忙しそうなその背中を見送って、俺も踵を返して歩き出した。風紀で問題があったのなら、もしかしたら生徒会の方でも仕事が増えているかもしれない。何か俺にできることがあればいいけど。  ゆっくりとした三回のノックは俺だという合図だ。いつも返事はないので、そのまま扉をあける。開いた扉の向こうには、いつも通り机の上に積まれた書類とその中央で仕事をする洋輔の姿が……ない。というか他の役員たちも出払っていた。俺の机の上には、会計補佐の几帳面な字で各々呼び出しがあった旨が簡潔に書かれていた。そういえば文化祭の出し物の企画書の提出期限が近かったからそれかもしれない。部活に向かう生徒の姿が多かったのも納得がいく。この学園の文化祭はそのクラスも部活も力を入れているから、その分生徒会の仕事も比例して増えていくのだ。  郊外にある学園だから、娯楽はそう多くない。持ち込みのゲーム機なんかはある程度目を瞑られているけれど、カラオケやゲームセンター、そういった繁華街の遊びとは縁遠いのだ。その分の熱量を部活や文化祭の出し物にぶつけて昇華させようという辺り、うちの生徒たちの善良さが伺える。まあ、たまに寮を抜け出している生徒もいない訳ではないみたいだけど。  さて、それでは俺はどうしたものかと思案する。とりあえず預かった書類を仕分けして各役員の机に配布。残った書類は通知やお知らせだから、全員が見れるように日付を書いてホワイトボードに掲示。後でコピーも取っておこう。生徒会長の机に仕分けたのは、当日の風紀委員と実行委員の配置案だ。それなら多分、去年と、念のため一昨年の同じ書類を出しておいた方がいいかな。あとは参加人数とか出し物の内訳とかのデータ一式。PDFで保存してあるけど、生徒会室のパソコンはモニターが小さくて使い辛いとよく皆で愚痴を零している。だから意外と紙媒体のデータも使用頻度は高いし、少し離れた場所にはなるけど文書倉庫があってそこに保存もされているのだ。  倉庫の鍵は職員室とこの生徒会室、それから風紀室の三か所に保管されている。生徒会室に保管されている鍵は役員なら誰でも自由に使用できるので、俺はそれを手に取って文書倉庫へと向かった。  重い手応えを以てガチャリと鍵が回る。文書倉庫はあまり人の出入りがないので少し埃っぽくて重苦しい雰囲気がした。紙の劣化を防ぐために厚手の遮光カーテンが引かれているのもその要因の一つだろう。薄暗い部屋の明かりをつけると、蛍光灯の白い光がやけに強く目に突き刺さった。  目的の棚は部屋の中程。まず最初に昨年度の記録を取り出してその分厚いファイルを捲る。日付順かつ行事ごとに纏められているとはいえ、文化祭の関連書類は多岐に渡り、文化祭の項目だけで立派な冊子が出来そうなほどだった。今年からでもそうするべきかもしれない。軽く内容に目を通しながら必要なものをピックアップしていく。地道な作業だが俺はこういった作業が嫌いではない。ただ、今朝はHRまで残りの時間も少ないのですべての作業を終わらせることは困難だ。一昨年の分はファイルごと生徒会室に持っていくか、また放課後ここにやってきて作業するかの二択だろう。  今日の業務の算段を付けながら、手先の動きは緩めない。反面思考の渦に嵌ると周りが見えなくなるのが俺の短所なら、思考を遊ばせながらも継続して作業できるのは俺の長所だった。だから気が付かなかった。文書倉庫の扉を開く坂木の姿に。 「一人だけこんな辺鄙な倉庫で作業なんてかわいそ~。でもお似合いかもね?」  突然聞こえた坂木の声に、俺は伏せていた顔を勢いよく上げた。坂木は扉に凭れかかるようにして気怠そうに俺を見ている。口元は笑みを浮かべているが、瞳はつまらなさそうにこちらを見下ろしていた。何か用か、と問うつもりでその瞳を見つめ返す。生憎それは伝わらなかったようだけど、最初から返事など求めていなかったのだろう。坂木は一人で勝手に喋り始めた。 「立ち入り禁止、立ち入り禁止って。もうすぐ補佐になるんだから、少しくらい融通利かせて欲しいよねェ。洋輔をイラつかせるしか特技がないサカナよりボクの方が絶対優秀なのに。そう思わない?上の階からいやらしく人のこと盗み見て睨み付けてくる補佐なんかよりさァ」  こてり、と坂木が首を傾げる。拍子に大きく開けられたワイシャツの胸元から、先日洋輔が手渡していたペンダントがちらりと顔を覗かせた。嫌だ。見たくない。見せつけないでくれ。そう思えば思うほど、視線はペンダントに釘付けになる。  俺がそれを見ていると分かったのだろう。退屈そうだった坂木の瞳に、爛爛とした光が宿った。  途端、地面に押し付けられるかのような、突然重力が増したかのような感覚。坂木の魔力暴走かと思ったが、坂木は愉快そうな笑みを浮かべたままだ。暴走は本来怒りや混乱などで感情が制御できなくなった時に起こる現象。ならば、今のこの重圧の正体は一体。  坂木から距離を置こうとして初めて気が付く。足の裏がまるで縫い留められたように床から離れないことに。なまじ平常通りの感覚で動こうとしてしまったばかりに、後ろに引こうとした上半身とその場に留められている下半身との間で均衡が取れず、俺は勢いよく尻餅を着くことになった。可笑しくて堪らないとばかりに坂木が大声で笑い出す。 「ねえ、ここ、古いみたいだからさァ……ちょっとくらい事故があっても、不思議じゃないよね?」  がたがたと棚が揺れ始め、すわ地震かと身構えるも坂木が笑いながらこちらに手のひらを向けているのが見えて、きっとこれは坂木の魔法か何かなのだろうと予測を付けた。ただ、どんな魔法なのか解析するにも、防御魔法を展開するにも、俺には詠唱が行えない。普段は学園から支給された詠唱破棄補助の魔導具を手首に装着して魔法を行使している。口頭での詠唱よりも発動に時間が掛かるが、補助具がないとそもそも行使すらできないのだ。だから咄嗟にそれに手を伸ばして、けれど、がたん、という大きな音に俺は顔を上げた。  カチャン、カラカラ、金属片がリノリウムの床に落ちていく軽やかな音。床に転がるのは棚の固定具だ。傾いてくる棚を見上げながら頭が真っ白になる。先程の大きな音は固定されていた棚が動いた音だったのだろう。てっきり攻撃魔法の類だと想定していたから初動が遅れた。破壊するわけにもいかない、と逡巡していれば、ずる、と鈍い音を立てて棚の上に置かれていた段ボールが一足早く滑り落ちてくる。  あれはたしか、あの中には、数えきれなくなったトロフィーや表彰の盾がケースごと収納されていた筈。だから一つ一つの段ボールが大きくて移動が大変だなんて、夏休みの一斉掃除の時に風紀委員の人が教えてくれた。  それが今、俺に降り注ごうとして。  何の魔法も間に合わないと、俺は咄嗟に頭部だけは守ろうと両腕で頭を抱えた。本当は体全体を丸めたかったのだけど、足は相変わらず張り付けられたように動かすことが出来ない。立てているよりかはと横向きに膝を倒した途端に、ガツンガツンと床に硬いものが当たっていく騒音。そして。 「っ!……っ、……」  足首に走る、激痛。めきりという音が耳にこびり付いた。声にならない悲鳴が上がる。ならない、ではなくできない、の方が正確か。けれど、重量のある何かが足首を圧し折らんとせんばかりに圧し掛かる衝撃を逃がしたくて口を開いた。その間も何度も何度も物が降り注ぐ振動がするたびに痛みが加速する。  バタン、ガチャン、ドシン。重量のあるものが床に叩きつけられていく音が止まない。その全てが俺に降り注いでいる訳ではないけれど、それでもいくつかは俺の身の上に、それも一段と痛みを発する足首の上に積み重なっていくせいで痛みが強くなる。熱い、けれど、それが過ぎていっそ冷たいような気さえする。ガシャン、とひと際大きな音がして次は頬と腕にピリピリとした刺激が刺さった。薄く目を開ければ、棚に備え付けられていたガラスサッシが外れて床と衝突して割れている。どうやらその衝撃音と、飛んできたガラスによって裂傷でもした痛みだったようだ。  そんな風に意識を遊ばせる。大丈夫。他所事を考えるのは、俺の特技だから。そうやって痛みから意識を遠ざけていないと、頭がどうにかなりそうで。  ああ、声が出せないって、こんなにも苦しいことだったんだ。  今になって初めて分かった様な気がして、痛みと、苦しみと、孤独とで涙が滲む。俺の助けてという声なんて、誰にも、届かない。  目を開けることもしんどいけど、視界を回す余裕もないけど、それでも多分坂木はもうどこにもいないと分かった。生徒会の人たちの足止めでもしているか、教室に戻って知らん顔しているか。何時頃、誰が見つけてくれるかなぁ。最悪放課後。最速で朝のHRで風紀委員に連絡が行ってから、だろうから、一限目とかかな。今は朝の自由活動の時間だから、もう一時間くらい?少し気が遠くなるなぁと苦笑いをした頬の動きで、浮かんでいた脂汗がたらりと頬を滑り落ちた。細く息を吐く。震えるそれを誤魔化すように沈め沈めと思考を落ち着かせた。 「ここにいるのか坂木。ここは立ち入り禁止だって……、おい!どうした!」  どうやら坂木は扉を開け放ったままで立ち去っていったらしい。お陰で、彼を探していたであろう誰かの声が予想よりも随分と早く俺を見つけてくれた。  ここにいるよ、意識はあるよ、とアピールするために、軋む身体の中で無い範囲で動かせる指先を動かして爪先で床をコツコツと何度も叩いた。時折ガラス片にぶつかってカシャリカシャリとか細い音を立てる。 「わかった、もういい、意識はあるんだな。……お前、会長補佐か」  聞き覚えのある声。瞳を開ける気力もないけれど、ガラス片が散らばっているから念の為に閉じたままでいろと指示をされた。書庫倉庫の中央には小さな机がある。恐らく彼がそれをぐるりと回って俺の頭部の方へと近付いてきたのだとシャリシャリと物を踏みつけていく音で察知できた。その床の振動に、彼の登場で遠ざかっていた痛みがぶり返すようで、俺は少しだけ息を荒げる。音は相変わらず出ないのだけど、様子が変わった俺に気が付いたのか、彼は慌ててしゃがみ込んで俺の額に手を当てた。  小さく彼の咥内で呟かれる詠唱。一瞬の間の後に、少し雑な風が前髪を乱していく。顔周りのガラス片は取り除いたからもう目を開けて良いという声に目を開ければ、彼は風紀委員の神崎(かんざき)先輩だった。 「どっか怪我して……声出ないんだったか。怪我あんなら二回床たたけ」  先輩の臨機応変な質問にいくつか答えている間、先輩はその答えをトークアプリに書き込んでいるようだった。すぐ応援が来るから、ちょっとだけ辛抱してくれ。そう繰り返す先輩は、目の下に酷い隈があって、俺より余程体調も悪いように思える。先輩は気にした様子もなく立ち上がって念のためにと写真を何枚か撮っていた。顔は写してないから安心しろ、と言いながら、今度はしゃがみ込んでまた写真を撮る。俺は繊細な魔法操作が出来ないから、この山になってる荷物を動かせないんだ、と無力そうに先輩はそう告げた。  足首に激痛がある。下半身を中心に棚の中身が降り注いでいる。足の裏が今も魔法か何かで床に張り付けられている。全てを正確に伝えられてはいないが、下手に動かすのは良くないと判断したのだろう。たしかに、これ以上は積載荷重オーバーも良いところだ。既に妙な角度で力が加わっているせいで苦しいのに、物を動かして負荷が増したらと思うと恐ろしくて仕方ない。正義感より冷静な判断で動いてくれる先輩が頼もしくて、床につかれた先輩の手の甲にそっと触れた。  入学したばかりの頃、絡まれていた俺を助けてくれたのがこの人だった。声が出ないという状態にまだ慣れていなくて、上手に助けを呼ぶことも出来なかった俺を、事情も聴かずに保健室に連れて行ってくれた。怪我なんて擦り剥いた手のひらだけだったし、なんなら俺を囲っていた生徒たちを殴り倒していた先輩の方がボロボロだったし、怒られていたのも先輩だったけど。それでも、この人は、この学園は苦しいばかりの場所ではないと教えてくれた先輩の一人だ。あの時は治幸先輩も心配して飛んできてくれたっけ。  苦しい。苦しい。なんでこんな痛い思いしなくちゃいけないんだろう。痛すぎて吐きそう。泣きたい。だけど泣いてもどうにもならないし。  ぐちゃぐちゃ考える。そこから逸らそうともっとぐちゃぐちゃ考える。でも最後に残るのはやっぱり、苦しいと、痛いと、どうして、だ。  でも。 「…………」  大丈夫だよ、と。先輩に言いたかったのか。自分を慰める代償行為だったのか。  振動でこれ以上痛まないように腕をそっと伸ばして、指先で先輩の手の甲を撫でた。先輩は驚いたように手を跳ねさせたけれど、少し考えた様子のあと、諦めたように溜息を吐いて安静にしてろよ、と俺の隣に腰を落ち着けた。 「……重力魔法と治癒魔法と、あと魔法除去が得意な教師と生徒を連れてきてもらってる。今日は、朝イチで坂木が特別棟に侵入したって騒ぎがあって……生徒会連中もバタついてたみたいだな」  返事が出来ない俺のことなど気にもしないで先輩は放り投げるように俺の欲しい情報をくれる。ぽつぽつと落とされるそれに、だから生徒会室は無人だったんだとか、朝の風紀委員の騒々しさの原因はそれかとか、いくつか腑に落ちる点と、そうでない点が浮かび上がる。  どうして坂木は早朝の特別棟に入れたんだろう。そもそも何を目的に侵入したのだろう。会長補佐の俺にこうして怪我させるため?そんなことしなくたって、あんなに洋輔に大切にされているのなら補佐交代の話なんて自然とその内浮かび上がりそうなものなのに。それじゃあ、まさかただ単に洋輔の側にいるため?我が番のことながら、大した執着心を向けられているものだと恐れ入る。……我が番、なんて言えるのがあとどれだけのことかわからないけど。 「これの犯人は坂木、でいいんだよな。……監視カメラのないエリアだ。お前の証言だけが証拠になる。ただ……」  先輩は少しだけ黙り込んだ。逡巡するように、あーだとか、うーだとか、言葉にならない呻き声を漏らしてから、これは部外秘の情報だから、俺のでけぇ独り言だけど、と天井を見上げた。 「真砂と坂木は、魔法操作の授業は属性分けでクラスが違うから見たことなかったかもな。坂木は、何というか、……少し、魔法制御に難のある生徒だ。教室では幸いにも事故らしい事故を起こしたことはなかったようだが、寮室の方では騒動になっていて、度々風紀委員が呼び出される事態にもなってた。最近の委員会の議題はもっぱらそれだったよ。で、いよいよ生徒だけじゃ対処できないってなったんで、近々魔力制御の魔導具が学園から支給される、予定だった」  ま、いつの間にかどこからか手に入れたらしい魔導具を装着してたからその話も立ち消えたんだけどよ。  そこまで言って先輩は俺に視線を戻した。 「でけぇ独り言で悪かったな。話戻すけど、お前しか証人が居ないもんだから、周りからすりゃ坂木にはそんなに緻密なコントロールが出来ないから犯人じゃないっていう論と、魔力が暴走した事故だっていう可能性のどっちなのか判断が付かない。……正直どんな処罰になるかもわからん」  俺からしてみればどちらもの意見に違和感があった。魔力操作に難がある、とは考えにくかった。同時に魔力暴走の線も。だって先程の彼はあれほど正確に俺の脚だけを固定し続けていたし、俺の近くの棚だけを俺に向かって引き倒していた。そこには疑問が残るけど、要は彼の処分が正しく下るかは今のこの状況では五分五分か、それ以下だということだろう。  正直彼にどんな処分が下るかはあまり気にしてはいないのだけど。 「ただ、処分が軽くてもあの生徒会長が手を出してきそうなのがな……」 「……?」 「え、だって真砂の番だろ、会長は。俺の番は……そういうことしないけど。会長は真砂のこと守ろうとしてるように見えるし」  スマホをゆらゆらと揺らしながら、今も陣頭指揮取ろうとしてうちの委員長に邪魔だってしばかれてるらしいわ。笑う先輩の言葉が、俺を励ますためのものなのか真実なのか。俺に判断は出来ない。でも、俺たちの確執を深く知らないはずの先輩がそんな不要な気を回す必要もないし。  またぐるぐると思考が回る。はあ、と熱い息を吐き出して、いい加減逃げ出したかった。痛みからも、ここ数か月……いや、もっと前からだ。数年前からの洋輔との状況からも。そう考えて握りしめていた意識の端を解放してやる。うつらうつらと意識を手放していく俺に、先輩が気が付く様子はない。喋れないって、たまにだけど、便利だ。自嘲を一つ。俺はそっと瞼を閉じた。  目が覚めたら、痛みのない世界になっていたらいいのに、な。

ともだちにシェアしよう!