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1.好きでいてもらう贅沢を手放したくない

──研修1日目の昼すぎ/亜紀視点 研修ではいくつかの講義が行われるが、亜紀は講師役に回ることが多い。この時間も、数十人の社員たちの前に立ち、資料を写したスクリーンの前で話をしていた。 人に教えるのは嫌いじゃない。もともと喋るのは好きだし、はっきりとした題材があると、言葉はどんどん生まれてくる。こんがらがった話を優しくほぐし、難しい相手に伝わりやすい形にするのも好きだ。 ただ、いくらなんでもこれは無理だな、ということもある。 自分の長所と言える(他人からも言ってもらえる)、努力と要領。でも、それだけではどうにもならないことはたくさんあって、「俺はまだまだなんだな」と思わされる。 そういう意味で、亜紀は春彦のことを心底尊敬している。 あいつはすごい。誰よりも早く物事の輪郭を捕らえ、芯を完全理解し、言葉にできる。才能があると言えばそれまでだが、春彦のここまでの人生が彼を彼たらしめ、光り輝く宝として春彦自身のなかに残っている上に、それを磨き上げる強い意志があるのだ。 『5年。この社で5年勉強したら独立する』   知り合ってしばらくしたころ、彼はそう言った。春彦にとってここは2社目で、勉強という言い方をするなら、もうそれで充分だと。 できると思う。それだけの器を持った人間なのだ。誰だって認めざるを得ない。 ──だから、と亜紀は思う。 だから、そんなにも自分にこだわるのがわからなかった。 だから、自分に対して普段見せない顔を見せ、うろたえる春彦は、とても珍しかった。 いままでと変わらない態度で接してくる。でも、ときどきとても困っている。自分を見つめたまま動けないでいる。 たくさんの気持ちを言葉にできないでいるのだ。 伝えてくる「愛の言葉」は、あの頭のなかにあるごく一部だ。 亜紀は、自分がそんな春彦を見て見ぬふりをしていることを自覚していた。 それはとてもずるいことだと思う。 待たせて、保留したまま。春彦がつくってくれている、ぬくぬくと温かな場所で、とろとろとした眠気に身を委ね、あの優しい手で撫でられ、時々耳たぶを揉まれたりしながら過ごしている。 そばにいてほしい。好きでいてもらう贅沢を手放したくない。 ……それは、愛情と言っていいのか? このままではいけないと思う。 だけど、この1ヶ月間、確信に触れる話はなにもできなかった。 あんまりにも居心地がよすぎて。     † 「じゃあ、とりあえずここまで。このあとはグループワークに入るけど……」 一通りの講義が終わり、亜紀はスクリーンに映した資料の画面を消した。壁際にいた社員が電灯のスイッチを入れ、部屋が明るくなる。 会場は狭くない。50人は余裕で入れる研修室だ。各自が使っているデスクも大きい。 ──なのに。 なのに、その最奥にひとり立つ春彦の視線に気づいてしまう。腕を組み、ただじっとこちらを見ていた。 その表情に特別な意味はないはず。仕事中だからそこにいるというだけで。 そう、仕事中だ。集中しろ。 亜紀は一呼吸置き、「失礼。グループワークに入るまえになにか質問があればどうぞ。 新卒くんたちも遠慮なくね」と言った。 「――はい」 いちばん前に座っていた男性が手を挙げた。 「どうぞ。名前は?」 「北河です」 亜紀よりもまだ小柄な彼は、去年の春の新入社員だ。 「質問です。U社の場合、食材仕入れ先のトラブルによる数値調整のタイミングは各店舗で判断ですか?」 「基本はそう。U社は店舗によってかなりメニューが違うから、一律で管理するのは難しい。それほど単位の大きな食材でなければ問題ないけどね」 「大きかった場合のことです。昨年は国内の天候不順が続き、葉物野菜の仕入れ先に細かな変動がありました」 「そうだね。どう関係するか聞かせて」 北河はその後、クライアントが予期せぬ仕入れトラブルで過剰在庫をかかえてしまう危険性を回避する方法を提案した。 「それをやると、また別の問題が発生するけど……でも、なるほど。新しいね」 亜紀は研修室にいる全員に向けて言った。 「いまの提案、もうちょっと議論してみよう。従来あるものを疑ってみるって大事だからね。特に古い社員はどうしても。古い社員ってのに俺も入るけど。おじさんだし」 社員たちが一斉に笑う。 そのうちのひとりが、27でおじさんってことはないでしょう、と言った。後ろの方の席にいる宮島だ。ちなみに宮島は亜紀よりひとつ年上だが、入社が1年遅い。 「新卒くんたちに比べたらおじさんだよ。で、さんざん言われてる、私が27歳に見えないとかいう話は置いときまして……普通に失礼だからね? 思っても言わないこと。童顔って自覚はちゃんとあるよ」 また、社員たちの笑い。 「私も入社して3年になります。3年って浅そうで、実はそうでもない。事実、いま北河くんが言ってくれたようなことを思いつかなくなってる。新しさは武器になるし、古さは敵になる。俺と同じようなおじさんたちは正しく焦ろう。でも、隠し持っている『知恵袋』はちゃんと共有しようね。それはそれですごく役に立つことがありますから」 亜紀はにこりと笑ってみせた。それだけで空気が和んだのがわかる。年上の社員たちにはこんな感じで少し配慮する。彼らも微笑んでいる。 こういうことの大切さは、春彦が教えてくれた。尖り過ぎる意味はない。 『若くして抜擢されたんだ。実力で黙らせろ。 しかし、敵をつくる必要はない。おまえにはそれだけの能力もある』 春彦のその言葉がなければ、効率だけを求めがちな自分はとっくに誰かにやり込められて、つまらない仕事を淡々とこなすだけになっていたかもしれない。 「北河くん。いい問題提起をありがとうね」 亜紀がそう言うと、北河は少し照れ臭そうに会釈してから座った。彼の隣では、おそらくは同じく新入社員であろう男が興奮気味にうんうんと頷いている。このやりとりでなにか腑に落ちたのかもしれない。そういう社員がいると、全体に活気が出るからとてもいい。悪い講義じゃなかったはずだ、と亜紀は安心した。 春彦は相変わらずこちらを見ていた。 亜紀は春彦と眼を合わせ、少しだけ微笑んだ。 でも、春彦は笑わなかった。それは、いまの講義に問題があったのか、あるいはそれ以外に問題があるのか。亜紀にはわからない。     † 研修メンバーがグループワークを行うあいだ、講師がそこにいる必要はない。亜紀は遅くなった休憩をとるために研修室を出た。 「よう」 そこで声をかけてきた者がいた。鼻の下に髭を生やした40代の男。 「……緒方さん……なんでこんなとこに」

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