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2.緒方専務の忠告

「……緒方さん……なんでこんなとこに」 緒方 啓介。この社の専務。亜紀はいまいる部署に移るまえ、試用期間にあたる期間は専務直轄の経営戦略本部にいた。当時からなにかと目にかけてくれる大先輩だ。「役職で呼ぶな」と言われたから、苗字で呼ぶようにしている。あまり硬い言葉も嫌がられる。上司としては、とても憧れている存在だ。人間としては、微妙に怖いところがある……かもしれない。 「この研修、おまえが企画していると聞いて、見に来てみた」 「……僕だけじゃないですよ」 「知ってるよ。相方は剣持だろ。有名だからな、おまえら」 ふたりで組んで大暴れしてるって話だ、と緒方が言う。 それは言いすぎだ、過大評価だ、と亜紀は思った。褒められているのだろうが、気持ちが晴れない。 「嘘でしょ。有名なのは剣持くんだけです」 ……不思議だ。「剣持くん」などと呼ぶと、知らない別の誰かのようで。 最初の最初は、そう呼んだはずなのに。 「あ? おまえ、本気でそう思ってるのか。だとしたら相当謙虚だねえ? いまの講義も聞いていたが、かなりよかった」 緒方はくっくと笑うと、開け放たれたままのドアから部屋のなかを見た。 なにを、あるいは誰を見ているのだろう。 「ん、やっぱり一ノ瀬はいいな。手放すべきじゃなかった。一通り勉強したら戻ってくるかと思ったのに、戻ってこなかったねえ」 「いやいや。なに言ってるんですか」 「マジな話ね。いまのポジションはよほど居心地がいいんだろうが、気が向いたらいつでも俺のところに来い。専務補佐で、一気に昇進させてやれる」 「……そんな話、初めて聞きましたけど」 「初めて言ったからな。下手に話を外に出したら、あそこにいる誰かさんが警戒するだろうよ。だから内緒。その誰かさんとセットだとおっかないから、おまえだけでいい。十分だ」 どこまで本気なのか、亜紀には判断できない。緒方は春彦のように「嘘をつけない」というタイプではなく、嘘も方便も武器にする。心を見せずに会話して、相手を翻弄するのだ。 「返事は?」言葉を失ったままの亜紀に、緒方が言った。「気が向いたら、だよ」 「……はい。ありがとうございます」 「あの彼はそのうち独立しちゃうだろうからさ」 「──え……ああ……いや」 誤魔化しきれなかった。まだ外に出していい情報ではないのに。 「だろ? そういうのわかるんだよね。どうしても」 「……僕もしっかり聞いてるわけじゃないので、ご内密に。すみません」 「もちろんだよ。予定は未定。まあ、もっと広い場所に出るべきだろう。いまの彼は狭い器のなかでうま~く泳いでいるが、ちょこっと跳ねただけですごい勢いの水飛沫が出る。本人はまったくもって気にしないが、周辺の者は大騒ぎ。そんな感じだな」 おまえもわかってるだろ、と緒方は楽しそうに笑った。 それは、亜紀にもよくわかる。春彦にはそれだけの能力がある。 緒方は楽しげだ。できる人間はできる人間の存在を楽しめる。余裕があるから。 春彦にも共通している、その種の余裕。 その余裕がなくなる瞬間は、ごく一部のことに限られている。 「じゃあまたな」 緒方の声で、我に返る。 だめだ、これではほかのことにも集中できない。 「はい。ありがとうございました」 「今度飯にでも行こう。俺は励んでいる皆さんにちょっとご挨拶を。いいか?」 「ええ、もちろん。早めに進行してますんで、大丈夫です。では」 亜紀は頭を下げ、その場を離れようとした。 「……あのさ、一ノ瀬」 緒方は、すぐには喋らなかった。この男の間らしくない間。 「緒方さん? どうしましたか」 「これ、本当に本当のお節介のお節介だが、その上で」 「なんですか、そんな……」 「……あいつに絆されるなよ」 「…………」 「心寧もおまえを気にしてる」 「心寧さん……?」 春彦の元恋人。出てくるとは思っていなかった名前。 緒方は頷き、研修室に入っていった。そのときにはもう、室内にいたはずの春彦の姿は見えなくなっていた。 教官用に空いている研修室に向かいながら、亜紀は摂り損ねた昼食のことを考えた。食堂はもう閉まっている。販売機に適当なスナックがあったはず。それで凌ぐか、と考えたところで、LINEの通知。春彦だ。 『部屋にいる。少し来れるか』 部屋というのは、春彦が自分たちに割り当てた宿泊室のこと。 『行けるけど』と、返信。 宿泊室は別の棟にあるが、遠くない。ただ、それほどのんびりはできない。 その心配を読んだかのように、次のメッセージが届いた。 『あとは宮島に任せてきたから、少し休め。専務の話も長引いているからちょうどいい。食べ物もある。昼、食べてないだろ』 気遣いは嬉しいが、「休むといい」が気になる。休んだほうがいいと思われるような失敗があったとは思えない。でも、あるのかもしれない。いまの自分を信頼できない。 『すぐ行く。ありがと』 締めを宮島に任せられるのなら、次の出番までは1時間半ある。各研修室からの声を聞きながら、亜紀は別棟に向かった。

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