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3.ふたりきりの317号室、小さな嘘

カードキーで鍵を開けて、部屋に入る。317号室。部屋に入ると、左右の壁際にベッドが2つずつ並んでいる。窓辺には小さなテーブルセット。春彦は脱いだジャケットを椅子の背もたれにかけて座っていた。もうすぐ4月。暖房はついていないが、部屋は暖かかった。静岡だからなのかもしれない。 テーブルの上には、紙のカップに入ったブラックコーヒーとバゲットサンド。 「助かる。どうしようかなって思ってたから」 「よかった。結構美味かったから余分に買ったんだ。近くにデカい牧場があるだろ? そこで売ってるやつを仕入れてるらしい」 「……てことは、春彦が自分のために買ったんじゃないの」 「違うよ。食べろ」 「……遠慮なく。手、洗ってくるね」 「ん」 生ハムとなめらかなカッテージチーズ、薄切りのアボカド。亜紀が好き系の具材。いつものようにしっかり咀嚼しながら食べる。なるほど、ちゃんと美味いサンドだ。ブラックコーヒーには、シュガーだけを入れた。 春彦はときどきコーヒーを口にしつつ、文庫の小説を読んでいた。「ここは普通、研修内容の確認だろ」と思うが、どうせすっかり頭に入っているに違いない。 午後の光に包まれた美しい男。 休憩時間だというのに、ぴしりと伸びた背筋。髪がきらきらと光っている。例によって、嫌味なほど絵になる。 「春彦……俺、さっきなんかやらかしたかな」 気になるから、訊いてみた。 「なぜそう思う?」と、春彦が少し驚いた表情を見せた。「完璧だったが。たぶん専務からも似たようなことを言われたのでは」 「そうだけど。休んだほうがいい、って言うから」 講義中の険しい表情も気になっている。 「それは、俺がおまえとふたりきりになりたかっただけ」 「……そっか。ならよかった」 その答えと、腹を満たしたこともあってか、やっと人心地がついた。バゲットの最後のひとくちまで食べて、冷めたコーヒーを飲む。 春彦は首を傾げて「おまえらしくないな?」と言った。「いつもの調子なら『わあ、個人的すぎる』とか言いそうなのに」 「ああ……まあ、いや……春彦の行動パターン、読めてきたから」 ──俺もおまえとふたりきりになりたかったのかもしれない。 思うのは簡単だ。 言葉にするのは、難しい。 「専務になにか言われたか」 「や、たいしたことじゃないよ」 亜紀は反射的にそう答えてしまった。 嘘だ。けっこう効いてしまったからこんなに気持ちが重いのに。 ──本当を少し混ぜないと、バレる。 さらに、咄嗟にそう思ってしまった。 嘘はつきたくないが、本当のことも言いたくない。 「……あのさ……あのひと、おまえがいずれ独立するだろうって言ってて。俺、なんか上手く誤魔化せなくて、ごめん。まだわかんないし、黙っていてくださいとは言ったけど」 「別にいい。高確率で実現する。おまえはそういうことを一切気にしなくていい」 「……わかった」 「それより。、ね」 たいして世話になっていないわりには親しげだよな、と呟く。 「いや……だって、親しげに見えたって専務は専務だし」 自分の扱いが特別だと思ったことはなかった。ついさっきまでは。 あれだって、本気かどうかなんてわからない。 「……なあ……俺とは、違う?」 春彦が文庫を閉じてテーブルに置いて訊いてきた。 「なに、が」 「親しさの種類と度合いとか」 「……そりゃ違うよ。全然……」 「宮島とも?」 「んあ? 宮島? なんで宮島が出てくる?」 「ついでに訊いただけ」 「……違うよ。違うだろ? 正直、そんなのお察しいただけないと困る」 「困る?」 「よくわかんないけど……なんか傷つくでしょうよ。俺が」 いままでふたりでやってきたことに意味がないみたいになる。仕事だけじゃない、ただ遊んでた時間とか、ただふざけ合ってた時間とか。とにかくムカつく。 おまえは、そんなことに説明が必要な人間か? 「傷つく……か」 春彦は亜紀の言葉をうまく呑み込めないようだった。亜紀にしても、なぜ自分がここまでムカついているのかわからなかった。ケンカしたいわけじゃないのに。 ふいに春彦が立ち上がった。いちばん近くにあったベッドに腰をかける。 「おいで。亜紀」 「……なに……サンドイッチのお礼のとか? 普通にカネ払うよ」 「そんなもんいらん。社食扱いだし」 そうじゃなくて、と言うように、春彦は自分が座るすぐ隣をぽんぽんと叩いた。 ベッドというだけで警戒するのもおかしい。亜紀はそんなふうに諦めて、春彦の隣に腰かけた。ホテルみたいにちゃんと柔らかいベッド。 「イヤじゃなかったらキスしていいか」と、春彦。

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