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8.意外な女性の姿
──研修1日目の午後/亜紀視点
春彦が部屋を出て行った。ドアが閉まったその瞬間。
「はあ……はああああ」
声に出して息を吐く。一気に力が抜けて、亜紀はベッドに倒れ込んだ。「大丈夫なフリ」はできた。会心の演技ができたはずだ。でも、演技は演技。全然大丈夫じゃない。
気を抜くと、ぞくぞくと身体を走る感覚に集中してしまう。触れてくる手、腰が溶けそうになるキス。咥えられて、意味がわからないくらい感じてしまった。腹を立てることもできず、ある意味自由を奪われることに興奮してしまった。
「知らんかった……俺、男もイケるのか……」
とすると?
緒方さんや宮島に同じようにされるとして……、
「…………いやいや。いやいやいやいや。違います。わあ、この想像はやめましょう」
空中に浮いた妄想をバタバタと手で消す。
「……春彦が相手だからなんだよね。そんなの、わかってんだけどさ」
獲物を狙う獣のように燃える瞳をした友人が、ひどくイイ男に見えた。見えてしまった。
亜紀には、戦闘力ではけっこう誰にも負けない自信がある。春彦は身体がデカくて体格的に不利ではあるものの、春彦には武道系の心得がない。そこが自分とは違う、と思っている。
だから、抵抗しようと思えば絶対にできるはず。
それができないのは。
どこかに、どこかに春彦の甘えを受け止めてしまいたいと思う自分がいるからだ。感情で負けているから、勝てない。春彦は自分のことを可愛いと繰り返すが、春彦のほうがよっぽど可愛い瞬間がある。自分はそれにとてもとても弱いらしい。
亜紀はその後もしばらくぼけっと寝ていたが、ふとテーブルの上にある煙草の箱に気付いた。春彦の煙草だ。ブルーグリーンのパッケージ。春彦がときどき吸っている、外国の煙草。
ベッドから降りてそれを手に取ると、無性に煙草が吸いたくなってきた。
「これ、貰ってもいいよな。春彦」
そう呟いてから、身支度を始めた。いつまでもうだうだしてはいられない。
建物全体は禁煙で、喫煙所は外にある。普段であれば上着を着てまで外に行く気はしないが、今日は違うのでちゃんとコートを持って外に出た。誰かはいるかもしれないと思ったが、そこにいた意外な人物に驚く。だいぶ距離はあったが、目が合ってしまった。煙草を手にしてコートまで着ているので、喫煙所に用事がないとは言えない。
緒方絡みだ、ということはすぐに理解した。
「心寧さん」
「亜紀くん」
ほぼ同時。
「あ、えっと……」
「あ……そっか、ごめ」
お互い同時にそんな呼び名で呼び合っていた関係ではなかったことに気付く。関原さんと一ノ瀬さん以上には発展していなかったはずだ。
「……すみません。春彦のせいだ」
春彦が「心寧」と呼ぶので、亜紀も苗字では呼ばないようになってしまっていた。
「私も。でもいいよね? 亜紀くん」
「心寧さんがよければ」
いいよお、と心寧が言う。煙草を吸うとは聞いていなかったが、彼女の指先にはしっかりと吸いかけの煙草がある。それに、なんだか全体的な雰囲気が違う。当時のようにきっちりしたメイクもしていないし、黒髪で肩までのストレートだったのも、明るいブラウンのふわふわしたロングに変わっていた。
「亜紀くん、前とちがーうって思ってるって顔してる」
「……バレますよね。失礼ですみません」
「事実だし、ぜんぜん失礼じゃないよ、自分でも違うと思う。会社にいるときはすっごく気を張ってたし、デキる女でいたかったから。ありがちで恥ずかしいんだけど、春彦に釣り合うようにがんばってた」
「そんなことする必要なかったような気がしますが。なにもしなくても素敵ですよ」
「敬語やめて。歳、あんまり変わんないよ」
「……なにもしなくても素敵だよ」
さすがの順応性! と心寧は楽しそうに笑った。
「さっき講義を覗いちゃったんだけど。あ、緒方に連れてこられたから来たんであって、春彦を見に来たわけじゃないんだけど。それはほんとに」
心寧はいま静岡にオフィスを持っているのだと説明した。打ち合わせのために緒方と会う約束をしていたのだが、「移動しながら話そう」と、半ば無理矢理ここに来るはめになったらしい。ここまでの移動は、緒方の車でということだった。
「緒方さんとは同期、だったっけ」
やっぱり敬語が出てしまいそうなので、注意深く話す。
「そう。歳は結構上だけどね。まあ……実際に仕事絡みの話もあるけど、実はいま付き合うかどうかお試し中で。だからこんなとこまで一緒に来たわけよ」
「お試しか……。ちゃんとした大人でもそういうことってするんだ?」
「はは! ちゃんとした大人ってなあに? やめてよ。全然ちゃんとしてない。もうね、恋愛に関しては特にだめ」
「そう、なのかな」とライターを探してポケットをまさぐっていると、心寧が貸してくれた。
火を点けて、久々のメンソールを吸う。
「……それ、春彦のだ」
「うん、そう」
イヤな雰囲気と言えば、イヤな雰囲気。
「私、久々に春彦の顔を見たらね……やっぱり別れなきゃよかったってすっごく思っちゃったりとかして。確かめたくなかったんだけど、未練たらたらなんだよね」
ん?
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