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9.チンコがあるとかないとかどうだっていい

亜紀は心のなかだけで首を傾げた。聞いていたのと話が違う。春彦は「心寧にフラれた」と言っていたはずだ。ただ、その詳細までは知らない。春彦の説明は、いつもとてもざっくりだったから。亜紀は亜紀で、マナーとしてつっこんで聞くのを避けていた。 「ごめん、そこまで細かく聞いていなくて」 「私にフラれたって言ってなかった? 春彦」 「……うん。まあ、ざっくりそんな感じ」 「そう仕向けられただけだと思う。自分から振ったら相手を余計傷つけるでしょ。そういうの、すっごく巧い男だもん。知ってるでしょ? 誠実な詐欺師っていうか」 「誠実な詐欺師」 なるほど、と思う。わかる。すごく。 「会社の女子たちはよく言ってる言葉だけど」 「……わあ。怖いね」 「詐欺師が? 女子が?」 「両方、かな」 ただしその詐欺師は、崩れるときには崩れる。それが、人間らしくてよかったり、可愛らしく思えたりするのだ。会社の女子たちは、それを知らないだけで。 「心寧さんが俺を心配してくれてたのは、そのへん?」 「あ、……あー、緒方が言った?」 心寧が目線を宙に逃がす。でも、すぐに諦めたようだ。 「……ごめん、違うの。ただの嫉妬で変なこと言っただけ。亜紀くんは春彦と対等に渡り合えてるでしょ? ていうか、緒方もそんなのわかってるはずなのに、よりによって亜紀くん本人に言うかね? あの男、そういうとこだよ」 「はは。よくわかんないけどね。俺、頭よくないから」 「よくないわけない。春彦って基本亜紀くんを軸に仕事の話をするし、頼られてるよ」 「自信はないけど」 「亜紀くんはそんな感じでいいんだよ。だから嫌味がないの」 羨ましかったんだよね……と呟き、心寧は何度か煙草を口に運び、その度に細くゆっくり煙を吐いた。あの手の男は、私みたいなのには無理なんだよね。そんな、自虐めいたことも言っていた。 こういうとき、亜紀は不必要に質問をしないことにしている。ifの話もしないことにしている。この場では永遠に解決などしない話題で、相手が求めているのは、ただ「自分の話を聞いてくれる相手」だ。質問はいらない。ifはもっと要らない。 けれど、いまはその制御がうまくいかなかった。 「……心寧さん、訊いてもいいかな。気分を悪くさせたらごめん」 「いいよ。もうなんでも聞いてよ」 「もし、春彦から寄りを戻そうって言われたら、また付き合う?」 あとから考えれば、あり得ない質問だ。心寧にイヤな思いをさせるだけの。ほんの少しとはいえ、せっかく親しくなった相手を苦しませる意味もない。それなのに。 「……うん。緒方にはすっごく悪いんだけどさ」 心寧は、「そんなこと言ってくれる未来なんてないってわかっていても」と続けた。 恋愛のさなかにいる彼女は、てきぱきと仕事をしていたときの彼女よりも幼くて、すごく可愛らしくて、慣れた様子でライターを扱う姿はひどく不似合いだ。 「じゃあ、亜紀くんは?」 「え?」 「亜紀くんは、もし春彦に付き合ってほしいって言われたら、どうする?」 「え? ええ?」 心臓が、耳のすぐ近くでドコドコ言っている。 冗談か? 「いやあ、俺……こう見えて男の子だけど」 「知ってる。いまって令和だよ? チンコのあるないとか、そんなのどうだっていいよ」 「わあ……」 心寧の眼が、こちらの眼を覗き込んでくる。 びっくりするほど長く感じられる3秒が経過した。 だが、考える時間はその3秒しかもらえなかった。 「──ごめごめ!」と心寧。「もう時間がないや! ねえ、LINE教えて? 私、次のバスで帰りたくて。緒方を待ってたら永遠に帰れなさそうだから。あのひと、自分は近くのホテルに部屋取ってるんだよ」 「心寧さんも泊まるんじゃないんだ」 「それでもいいかって思ってたけどさ。もうそういう気分じゃないよねえ」 「……半分くらい俺のせい?」 「そうかも。でも、いいんだよ。こういうのって、きっかけがなきゃ見えないままだっただけで、事実としては間違いなくそこにあるのよ。きっかけをありがと」 心寧はそう言うと立ち上がり、スマホを出した。 お互いのアプリ画面に、新たなアイコンがひとつずつ増えた。 「やった! 亜紀くん、また必ずね!」 「うん。また」 にこにこで見送った数分後にはLINEの通知が来た。心寧のメッセージを見て、亜紀はことさら深いため息をついた。 お茶、絶対ね! チンコって言ってごめんね! 「チンコはね……そこは気にしてもらわなくてもなんですけどね……」 ますます緒方から言われた「絆されるなよ」の意味がわからなくなった。 また、通知。どうやら彼女は全然喋り足りなかったらしい。「もし春彦に付き合ってほしいって言われたら、どうする?」の答えはいらないらしく、ほっとした。 可愛いひとだ、と思う。取り繕わない彼女のほうがきっといい。なにもがんばる必要なんてなかったのだ。 そして春彦は、彼女の本当の顔を知らない。見えていたら、もっと惹かれていたかもしれない。手放すことも、なかったかもしれない。

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