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16.なんとなく彼のベッドにもぐり込みたい

──研修2日目の夜中/亜紀視点 亜紀は、アルパカに耳を噛まれそうになって目が覚めた。もちろん夢である。 噛まれそうになっただけで、実際噛まれはしなかった。唇?がふにっふにっと何度も亜紀の耳たぶにぶつかり、それで終わり。揉まれているみたいな感触。なぜアルパカ? 向こうのベッドで、もぞもぞと人が動く気配。どうやら春彦はつい先ほどベッドに入ったばかりらしい。数分後にはスマホをテーブルに置く音がした。たぶんその6分後くらいには静かな寝息。見事にスムーズな寝つきだ。春彦も疲れていたのだろう、と亜紀は思った。 それなのに、なにかしたくなった。少しだけだ。少しだけ話したい。 そっとベッドを抜け出した。部屋には常夜灯だけが点いている。冬でも建物全体が病院のように暖かな研修施設だが、さすがに夜はちょっと冷える。亜紀はひとつ身震いして、自分の隣のベッドで眠る北河くんの顔を覗き込んだ。健やかに寝ている。 絨毯の上を裸足で歩き、よく寝ている青木くんの顔を見る。口がぽっかり開いていて乾燥しそうだが、閉じてやるわけにもいかずスルーした。 で、その隣のベッドで寝ている、春彦。 眠ってはいるが、まだ顔から緊張が取れていない気がする。以前、自分の隣でぐーすか寝ていた彼はもっと緩んだ顔をしていた。 その顔を見ていたらなぜか、妙ないたずら心が湧いてしまった。 やあ、さすがにそういう状況じゃないよね、と思うには思うが、ちょっと面白そうだなと思ってしまうとなかなか取り消せない。自分でも「そういうところだよ」とツッコミを入れるが、取り消すのは無理。だから春彦の衝動も責めきれない、というか。 数十秒考えてから布団をめくり、また数十秒考えてから、そっとその空間に滑り込んだ。 「わあ、あったか」 思わず声を出してしまった。が、春彦が起きた様子はない。想像していたより遥かに温かくて、気持ちがいい。この男の香りに安心してしまう。 たぶんだけど、普通こうはならない。というか、ほかの人間ではこうならない。 春彦だからなんだよね、と改めて思う。 友人という範囲を超えて好きかどうかはわからなかった。でも、友人という範囲を超えて好きかどうか考えてみたこと自体がなかったのだ。いきなりそういう思考が必要なところに引っ張り込まれてずっと混乱していたが、少しずつ落ち着いてきた自分もいる。 そうなのだ、「そういう思考」で考えたときに、どうかと言われれば…… 「──ん……」 そこで、春彦が動いた。 あっ、どうしましょうね? と思うが、ここで飛び出して逃げたところでどうにもならない。 亜紀は顔を上げて言った。 「あの、こんばんは……」 普通の挨拶。ほかに気の利いたセリフを思いつけなかった。 「こ……こんばんは」 驚いた相手も、礼儀正しく挨拶を返してきた。春彦の顔はものすごく近くにある。 「寝ぼけてる?」 念のために確認。 「いやそのセリフは俺が言いたい。ベッドを間違えたのか?」 「や、ただこのベッドに入ってみたくなってしまったので」 「このベッドに入ってみたくなってしまったので……?」 ただの復唱。いつものキレがない寝起きの男。 「ダメだった?」 「いや、ダメじゃない。むしろ歓迎する。いらっしゃい(?)」 「……はい、どうも。アルパカで目が覚めちゃって、ちょっと話せたらいいなと思って。寝たばかりのところで申し訳ないんだけど」 「アルパカで……? それは大変だったな。大丈夫だ、もう6時間くらいは寝たはずだから」 「6分だよ。単位が違う」 6分? マジか。実に充実した6分だった、と混乱している様子の春彦。話があるとしてもわざわざベッドに潜り込む必要性はなかったわけだが、そのあたりのツッコミもない。彼らしくないが、都合はいい。亜紀だってどう説明したらいいかわからない。 「君、すごくあったかくて、いいね」 とりあえず、そんなセリフで誤魔化しておく。君呼びはちょっと気に入っている。 「ん。そうか」 「仕事は終わった? 結構かかった感じだな」 「いや……実は仕事じゃなかったんだ。全然別のことを考えてて」 「別のこと? なんだろ」 ごく小さな声で囁き合う。自然に身体と身体が近づいた。ふたりのあいだにわずかに残されていた空間が押し潰される。春彦の手が亜紀の腰に回る。 亜紀はさっきよりもっと身体を彼に預けてみた。全身の力を抜いて、自分の身体の重みを諦めるようにして。春彦の鼓動が聞こえてくる。鼓動にしては大きすぎるくらい響く。でも、きっと自分の鼓動もそれと同じくらいに響いている。お互いさまだ。 「……俺、おまえに確認しておきたいことがあって、」と春彦。 そう切り出したわりにはそのあとすぐ出てこなかったが、亜紀は黙って待ってみた。 「心寧のこと、」 言われて、「あ」と思う。あの会話、すごく中途半端だった。 「──その…………もしかしたらだが……彼女のことが好きなのか……と。もしそうなら、」 「え?」 「応援は……できない。申し訳ない……おまえを諦めることはできない。ごめん。でも、絶対に邪魔はしない。さっきそういう結論に至った。諦められたらとは思ったんだが」 「……諦めようと……したの?」 ほんの少し。突き放されたような感覚に苛まれる。まだ距離を取っているのは自分のほうだから、そんなことを言える立場ではないのだが。 「ああ。それができたらいちばん……いまの関係を守れるとは思うから。平和……だから」 「…………平和」 「ん。でもな」 「…………」 「全然無理なんだ。その代わりの平和を欲しいと思えない」 力なく微笑む男。講義で見る姿とはまったく違う。 ──ただの「好き」ではないからだ

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