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20.一ノ瀬亜紀を引き抜くつもりらしい専務と話す

──研修3日目の午後休憩/春彦視点 午後の休憩時間。 「春彦さん」 講師陣の控室でコーヒーを飲んでいると、宮島に名を呼ばれた。 ん? 名を呼ばれた? 「……なんだ、その気持ちの悪い呼び方は」 宮島が亜紀だけを名前で呼ぶのは気に入らないでいたが、かといって、決して「自分も名前で呼んでほしい」とかではなかったので、春彦は感じたままを伝えた。 「いや気持ち悪くはないでしょ、普通だよ。それより、昨日の夜はどうでしたか」 「特には。ビールはありがたくいただき、仲良く談笑して寝た」 「嘘でしょ……信じられない」 「チャンスを生かせなくて申し訳ないな」 「マジで? だって今日の亜紀さん、非処女オーラがとんでもないよ」 「おまえの世界の特殊な単語を使うな」 「だいたいわかるでしょ。いやでも、ええ? ホントに?」 宮島が少し大げさに首を傾げた。 昨晩、恋のライバル宣言とでも言うべきことをしたのがこの男だ。 自分の好きな男のオーラ(というものが存在するとして)が処女から非処女になるのは、むしろ避けたいことなのでは? 春彦は不思議に思ったが、宮島が総合的に不思議なのはいま知ったことではない。 「春彦さんもなんかキビキビしてたしさ、なにかいいこととかあったのかと」 「仕事は仕事だろ。なにがあろうと関係ない」 そうかなあ、と宮島。 無論そんなわけがない、と春彦は心のなかだけでツッコミを入れた。 もちろん罪悪感はある。あれほどまでのことをさせるほど、自分は亜紀を追いつめていたのだ、ということに対して。 しかし、それはそれとして、あまりにもヨすぎる夜だった。奇跡のように。何度も繰り返し思い出し、今日を過ごす糧にした。 その一方で。   ──もう、無理なんだろうな ぼんやりと。諦められないが、諦めるべきなのだろうと思った。少なくとも、物理的な距離は置くべきだ、と。 夢のような昨夜の出来事。しかし、ごく控え目に考えてもまともな社会人の行為ではない。亜紀に無理をさせた。その上で、亜紀を社会的な危険に晒した。もし彼らに見られても黙らせる、そうは言ったが、リスクとしては巨大すぎる。 それに、心寧のこと。 心寧が好きというのではないのは、きっとその通りだ。亜紀は嘘をつかない。 だが、春彦は亜紀の友人でいられる心寧に嫉妬した。恋人としてでなくとも、彼女は永遠に亜紀と関係を持ち続けられる可能性があるのだ。恋人同士でなければ、「終わり」もない。 終わるよりは、友人のまま離れたほうがいい。具体的にどう伝えるか? それは、まだ全然わからないけれど。 会議室のドアが開いた。数名が入ってくる。 「げ、マズ」と、宮島が小さな声で言った。 「……よお、剣持。それから……」 緒方が声をかけてきた。緒方の後ろには亜紀、さらに講師陣のメンバーが3人いる。 「私は宮島と申します。どうも」 「知ってる知ってる。秘書課の皆さんがよく話してる」 「なにをですか? いやだな、あはは……」 宮島がちらちら自分を見てくるが、春彦は特に気にしなかった。 自分と緒方専務に「不仲説」が流れているのは知っている。けれど、それは本当にただの噂で、実際に正面衝突したことはない。緒方とやりかたが対照的とされる岩田常務に気に入られていることや(春彦の入社当時の上司だった)、春彦自身も緒方と正反対のタイプに見られていることもあり、そんな噂が生まれただけだと思っている。 ──むしろ、近いタイプかもしれないな などは思う。 だとすると、余計に仲良くはなれない。 「剣持、さっきは助かった。ありがとうな」と緒方。 「いえ。特には」 「……なんかしたんですか、春彦さん」 「社長らのお相手をしてくれたんだよ」と、宮島に向かって緒方が答えた。「彼はお偉いさんたちに大人気だから、すごく助かるんだわ。まったく、あのひとたちがこんなとこまで来なくてもいいのにね。今回の研修が話題になっているとはいえ」 まあ俺もか、と緒方は笑い、よりによって同じテーブルにどかりと座った。 亜紀が自販機を見ながら「緒方さん、なにか飲み物は──」と言いかけたその時だ。 「一ノ瀬。異動の件って、もう相方に相談した?」 室内にいる全員が、動きを止めた。 当然、春彦も亜紀の顔を見た。そんな話題が出た覚えはない。ちらりとでも話に出ていれば、自分がスルーできるわけがない。忘れるはずもない。 「……いえ」と亜紀。 「なんだ。まだか」 「正式なお話はいただいておりませんので」 亜紀はあくまでも冷静に答えていた。 「正式になるもならないも一ノ瀬次第だからな。剣持に相談くらいしたってよかったんだ」 緒方は至極軽い。宮島は明らかに「そんなのここで話すことじゃないでしょうよ」という顔をしている。ほかの講師たちは固まっている。 「初耳なら申し訳ないが」と緒方。「できればうちの部署に戻したくてね。どう思う、剣持。忌憚のない意見を頼むよ。君は以前、一ノ瀬の異動に反対しているからさ」 「……あれは、同部署内のチームについてでしたから。異動とは言えない」 「うん。まあそこはわかってるけどね、聞かせてもらえたらいいなと」 緒方が自分の意見を本気で参考にするとは思えなかった。好奇心があるだけだろう。 春彦には、目の前にいる上司よりも、亜紀の視線が気になった。 亜紀は特に動揺する様子もなく、じっとこちらを見ている。 「当時──、」 春彦は話しはじめた。まともに話す義務はない。 「問題ないと思います」、それだけでよかったはずだ。それでも。

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