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22.「あの日」と同じ

春彦と宮島が会議室から出ていったあと、緒方はそこにいた講師陣に冗談を言った。 「いまの、まだ全然決まってないことだから内緒な。言ったらおまえらも引き抜く」 これで一気に空気が和んだ。緒方直属は厳しいことでよく知られているが、精鋭と呼ばれる一員の候補に含められるのは誰だって悪い気はしない。 緒方が彼らと談義をはじめたので、亜紀は軽く会釈してそこを抜けた。緒方はひらひらと手を振るだけで、それ以上なにもなかった。 講師としての仕事はもうないが、最後の講義と研修の締めがある。それは春彦が担当する。 通路を歩きながら、亜紀は春彦の言葉を反芻していた。知っていることばかりだった。わかっていたことだけだった。 ただ、明確な言葉にしてもらえたのは初めてだった。 その言葉のひとつひとつが、じわじわと自分に染み込んでくる。 素直で、彼らしいとしか言えない表現の数々。重いといえば重い。けれど、すべてがとても心地いい。ひとつ残らず自分だけに向けられた、この男の想い。 ──考えなくてはならない。でも、それはまたあとでいい だって、散々保留してきたのだから。 どうせならとことんベストな結論を目指す。 亜紀は講義室の後方から入り、開いている席に腰かけた。 教壇に立つ春彦の様子は、いつも通りだった。聞き心地のいい声、スムーズな語り口。抑揚はあるがまったくもって噛まない。笑えるポイントもしっかりと挟む。相変わらずいかした野郎だ、と眺めるしかない。 あと、オールバックはかなり似合っている、と思った。 なぜか教壇の横、補助に当たる者の位置に宮島がいる。なにやらあの男らしくなく難しい顔をしていた。亜紀を見つけてなにか目配せしてきたが(本当はあなたの場所ですよ、とか、そういうことかと)、面白いのでそのままにしておく。誰が立つと決まっているわけじゃないし、誰かが立つ必要もないのだ。春彦になにか意地悪されただけだろう。 自分たちの問題とごちゃまぜに進んだせいもあり、この3日間は光のごとく時間が過ぎたが、研修は非常に充実していた。特に新入社員からのいい反応があって、満足している。亜紀は手元のモニターを眺めながら、よくできた講師の話に耳を傾けた。 「……では、これで今回の研修は終了しました。お疲れさまでした」 約1時間半後、春彦が言った。 ぎし、と椅子の背もたれに体重をかける音があちこちから聞こえる。遠慮なく両腕を伸ばして天を仰ぐ者がいたが、青木くんだった。 「持ち帰りの課題がある者は週明けから取り組んでください。明日からの休暇中になんとかしようとしなくていい。しっかり休んでほしいです。なお、アンケートについては……」 春彦が手を掲げ、誰かを指し示した。その先は亜紀に向いている。 「そこにいる一ノ瀬さんが面白い読み物にまとめてくれるはずだ」 突然のフリだ。 皆が後ろを向く。視線が亜紀に集まる。春彦は説明を続けた。 「一ノ瀬のレポートはただのまとめじゃない。今回が初めてのひとはご存じないと思うが、毎回楽しみにしている社員も多いんだ。だから、よかったことも悪かったことも、思いのたけは全部ぶつけて提出してやってください」 亜紀は一瞬戸惑った。これはさすがに、まあまあなプレッシャーだ。 しかしその瞬間、あの日と同じ声が、自分の頭のなかだけで聞こえた。 場も違う、セリフも違う、だけど。 動揺は見せない。簡潔に応えることにする。 この興奮が漏れ出ないように、とにかくクールに。 ふたりのあいだでは当たり前のことなのだと人々が理解できるシーンをつくり上げる。 「どうぞ、お任せを」 拍手が巻き起こるなか、亜紀は信じていた。 春彦には、あの日と同じ返事が聞こえている。 ──いいよな、亜紀 ──もちろん     † 亜紀が317号室に戻ると、春彦がスーツケースに荷物を詰め込んでいるところだった。 北河くんたちの荷物はもうない。お疲れ、とお互いに言い合う。 「春彦はもう新幹線で帰る?」 春彦のベッドに腰かけてから、聞いた。亜紀は「常に荷物はまとめてある」タイプなので、いまさら詰め込むものはない。 「いや。これから社長たちと食事だ。さっき見かけただろ? 取引先の社長が一緒。静岡の」 「わあ、それは。杉山ロナルド社長だよね。またお気に入りって言われるな」 「……あのさ、緒方さんたちには内緒だけど、その社長ってじいちゃんの古い友達なんだよ」 「そうなの?」 「終戦の10年後くらいにドイツで知り合ったらしい」 春彦は、その友人はもう80歳になるはずだがそう見えないし、ばりばりの現役で、春彦のことも可愛がってくれているのだと説明した。春彦の祖父は春彦にあの新宿のマンションをくれたひとで、資産家だ。 「──つまり、俺がロナルド氏の仕事を取れたのは、実力でもなんでもないってことだ。俺はお気に入りになれたわけじゃない。お気に入りだっただけ。7歳のときからね。うちの社長もこのことは知らない。ロナルドが黙ってろって言うから黙ってるが、総合的に見ればただのズルだ」 「あは。ズルってことはないでしょ」 「あのひと、そういうのが好きなんだよ。自分たちだけが裏を知ってる茶番みたいなのがさ。経営者ってそんなのばっかりだ。でもまあ……俺たちもか」 さっきのやりとりのことだ。亜紀も、春彦も笑った。 「なるほどね。今回の訪問者がずいぶん多い理由もわかったかも」 「そうだ。同窓会気分でご年配の金持ちが集まってる。俺なんかおもちゃにされてるだけだし、専務はうまく逃げてる。そういうわけで……亜紀は? 小田原に寄るか?」 亜紀の実家は小田原にあり、こういう機会があればたまに寄ることにしているのを春彦も知っていた。姉が結婚して家を出てからは特に。 「ん……わかんない。どうしようかな。新幹線のチケットは取ってないけど」 「好きにすればいい。どこかの飲み会に参加してもいいわけだし」 スーツケースをロックして、春彦が立ち上がった。 本題からズレたまま進む会話。いつまでも流れに任せてしまったら、大きくズレたままで終わる。春彦がどう思っているかはわからないが、それじゃイヤだ。

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