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23.レクサス(緒方の車)内決戦
「……あのさ、春彦」
「ん?」
「明日……春彦んちに行ってもいい?」
「疲れてるだろ」
「別に、そこまで疲れてない」
「そっか。じゃあ、たまには外で飯でも食わないか? 新宿じゃなくて、中間地点あたりで。吉祥寺でいいか。おまえも立川に帰りやすい」
「そうじゃ、なくて」
「…………」
ここまで来ると、本題に入らないのはわざとだったとわかる。さすがに。
「他人がいるところで俺たちの話なんかしたくないよ。君のマンションがいい」
スーツケースのハンドルに置かれていた、春彦の手。その手が、ふいに亜紀の頬に触れた。
反射的に、身体が揺れる。
それを見て、春彦が目を細めた。
「襲わないよ」
「…………」
「──とは、言えないんだよ。もう。現に襲ってるから」
「…………」
「考えが甘かった。俺は自分を信頼しすぎていた」
「……だから、俺なら──」
投げ飛ばせる、と言おうとしたときには、手首を掴まれてベッドに押し倒されていた。
だからベッドのそばはイヤなんだ、と軽口を叩く隙もなく、あのキスがやってくる。
「──っ、……う」
相変わらず容赦がなくて、けれど優しくて。流し込まれる強い感覚に溺れ、目を開けていられなくなる。まるで脳内に直接響いてくるようなキス。じんじん痺れて、こじ開けられて、自分自身を守れずに解き放ってしまう。
なにを考えることがある? 全部委ねてくれていい
そんな甘い呟きに、誘惑されそうになる。
「は…………」
──もう、抱き締めてくれたら、抱き締め返してしまおうか
そんなふうに思った瞬間、唇は離れた。
「……ほら」
自分に圧し掛かったまま、優しい目をした男が言う。
「おまえ、もう俺を投げ飛ばすことなんかできないだろ」
「…………」
「だからだ」
春彦のスマホが鳴った。彼はそれには出ないまま、「じいさんたちを待たせてる。もう行く」とだけ言って、亜紀を置いて去った。
仰向けになったまま、天井を眺める。
外から聞こえる同僚たちの声。秒針の音。自分の、鼓動。
「……ふん。待ってろ、色男」
キスの余韻を味わうのは、いまではない。
亜紀は身体を起こし、口の周りを手の甲で拭ってからベッドを降りた。
†
「緒方さん!」
駐車場にいる緒方を見つけて、亜紀は声を張り上げた。緒方はダークグレーのレクサスに乗り込もうとしていたところで、呼ばれたのに気付いて軽く手を挙げた。
「よかった! 探してたんです」
亜紀はスーツケースを転がしながら緒方のそばに急いだ。既に日は沈みかけていて、周囲は薄暗い。吐く息は白く広がっていく。
「おまえは飲み会に行かないのか? 新幹線組か」と、緒方。
「普通に帰る組です。チケットは取っていないんで、適当に。でもその前に緒方さんとお話ができたらなと思ってたからよかった。お急ぎですか?」
「お話? なら、乗ってくか。立川まで送ってやる」
「え、いいんですか」
「練馬までの通り道だ。どうぞ。煙草の匂いが平気なら。乗り心地だけはいい」
亜紀は礼を言い、スーツケースをトランクに入れ、助手席に乗り込んだ。言われるほど煙草の匂いはしない。緒方が好む銘柄とは違う煙草がセンターコンソールのドリンクホルダーに突っ込んであるのに気づいたが、見なかったふりをした。
暗闇のなかを車は進む。平日の金曜、多少の渋滞にも巻き込まれつつ、しばらくは研修の話をした。話が切れたとき、亜紀から「それで」と切り出した。
「異動などのお話の前に、ちゃんとお伝えしておこうかなと思いまして」
微妙な間を挟み、
「剣持と話したのか」
……と、緒方が言った。
「はい。そのあたりのことです」
あれを「話した」と言っていいものかどうかはわからないが。
「さすが。早いね。んー……次のサービスエリアで停まっていい? ちゃんと話聞くから」
「いや、そこまでしてもらう感じでは」
「俺、コーヒー飲みたいもん」
「わかりました」
亜紀は笑ってそう答えた。自分としても、そのほうがいいだろうと思いながら。もう、逃げ道は断つ。
自分が買ってくると緒方が言い張るから(もちろん最初は断った)、任せて待っていると、彼はテイクアウト用のカップをふたつ持って戻ってきた。
「すみません、ほんと……」
「実は煙草も吸いたかったからな。待たせて済まない」
「いえいえ。あと俺、煙草平気ですけど。ときどき自分も吸うし」
「そお? いつも吸うのは剣持か」
「……はい。最近、春彦はちょっと……増えたかな」
ひどく絵になるワンシーン。悩ましささえもファッションのように着こなせるのが春彦だと思っていたが、思い苦しむ姿を間近で見てしまうと、やはり気持ちが沈む。
緒方がカップに口を付けるのを待ってから、亜紀もひとくちコーヒーを飲んだ。ミルクも砂糖も入っていないコーヒー。すごく熱くて、あまり味がわからない。
沈黙。
切り出し方が難しい。仕事の何百倍も難しい。言えると思っていたのに。
「まあ……無理にいま話さなくてもいいとは思うけどな」と、緒方。「いろいろ決まってないなら、特に」
「はい。でも、それって俺が決めなかっただけなんですよね……」
「ん……んんん……じゃあ、決め……たと」
「心は」
「おお……? おお……そうなのか」
自分のもじもじが移ったかのように、なんか緒方ももじもじになってしまったのが、亜紀にはちょっと申し訳ない。すごく妙な空気で車内が充満している。
でも、もう。
隣のスペースに停まっていた赤いワゴンに、ふたりの大人と小学生くらいの子どもが乗り込んだ。暗闇のなかで走り出すワゴンを見送ってから、亜紀は話しはじめた。
「異動については、必要であればもちろんします。ただ、できればまだいまの部署で続けたい気持ちは強いです」
「うん。わかった。問題は、そこでお話が終わらないってことな」
「はい」
待ってろ、色男。
そう言った過去の自分を思い出し、勇気を奮い起こす。
「俺は、剣持と、仕事上ではパートナー的にやってるわけですが」
「うん。相方ね」
「プライベートでもパートナーってことになると思うので」
「ん?」
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