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第7話 「本気にすんな、ガキ」
……え?
一瞬、完全に周囲から音が消えた。
俺は史人さんに掴まれていない方の左手で自分の左耳をそっと抑えてみる。ぼわっと外の音が滲む。ああ、よかった。耳はおかしくなっていないみたいだ。
でもおかしい。どくどくいう音がやけに聞こえる。心臓ってこんな音するんだっけ。普通にしていてこんなに体の中に響いちゃうものだっけ。というか、俺、こんなこと考えている場合だっけ?
だって、この人今、とんでもないこと、訊いてこなかったか?
――千冬は俺が千冬に付き合ってって言ったら、どうする?
確かにそう言った。どうする? と訊いてくるくらいだから、選択権はこちらにあるということなのだろうけど……正直、俺にはよくわからない。
付き合うって具体的になにをどうすることなのか。いわゆる恋人になるとかそういう話になるんだろう。でも、恋人ってなにするもの?
そこまで考えたとたん、史人さんの髪と手に挟まれたままの右手が気になってきた。
掌に触れるさらりとした感触と、甲を包む、俺よりちょっと熱い、手……。
考えてみれば、こんな触れ方も普通はしない気がする。そもそも史人さんにとって俺は友達の弟でしかないはずだ。なのに、なんで髪に触ることを許してくれちゃったんだろう。
というか……付き合うって言葉が出てくるってことは、史人さんも俺のこと……。
・・・も?
過ぎった助詞に俺は飛び上がりそうになる。突然言われて動揺はしていた。全然処理が追いついていなくて完全にバグってもいた。でもそんな無意識で思い巡らせてしまった気持ちだからこそ、すごく真実に近いものがあるような気がした。
史人さんが、じゃなくて、史人さんも、ということは、つまり、俺も……。
好きって、こと、じゃん。
自覚したら胸が苦しくなってきた。それになんだかいたたまれなくもなってきた。だって、俺達の周りだけ、完全に時間が止まっているみたいに、俺の手は史人さんの髪に触れたままになっているし、その俺の手を史人さんも押さえたままなんだから。
馴染みのない感覚にどう反応していいのだかもわからなくて、俺は完全にフリーズする。史人さんも黙っている。いつもふざけたことばっかり言うくせに、なんで今日は黙ってるんだよ、と八つ当たりをしたくなってしまう。
けど、その俺達の間の空気を破るみたいに、ちりん、と音がした。音に反応して史人さんの手が手から外れ、俺の肩をくいっと押す。
「こっち」
短い声とともに車道側から遠ざけられる。その俺達の横を、ママチャリがぎこぎこと通り過ぎていった。白いライトが一瞬俺達を照らし、すぐに遠ざかっていく。
歩道もない、細い道路だけど、今の時間、それほど人通りもないそこで、俺達は無言で向かい合う。ちょっとだけ夏の匂いがする風がさらさらと吹いていて、史人さんの髪が揺れるのを俺は呆然と見つめる。その俺に史人さんが厳かに言った。
「千冬、さっきの答え、教えて」
――千冬は俺が千冬に付き合ってって言ったら、どうする?
「えと……」
「好きか嫌いかで言ったら、どっち?」
「え、あ……」
好きか嫌いかで言えば、絶対好きのほうが大きい。
「あの……そんなの、わか、んない」
けど、それをそのまま伝えるのはやっぱり恥ずかしかった。真っ赤になって顔を背ける俺を、史人さんはじっと見ている。その俺達の横を、また一台、自転車が行き過ぎて、後部座席のチャイルドシートに乗った子どもの不思議そうな目と目が合った。
いたたまれなさがMAXでもうどうにもならない……と思ったときだった。
「わかった。帰ろっか」
不意に史人さんが言った。え、と顔を上げる俺を見ることなく、歩き出してしまう。
「ほらほら、暗くなってきちゃったし。送るから。おいで、千冬」
背中を向けたまま言葉は発せられ続ける。その後ろ姿からは、先程まであったこちらの胸を狭くするような甘苦しい強引さは完全に消えていて、俺は激しく混乱した。
一体、なんだったんだろう。付き合う云々の話はもう終わりなのか?
そんな簡単に終わりにしちゃえるものだったのか? 俺はすごく……悩んだのに。
めちゃくちゃもやもやする。だからわざと足音を立てて後を追うと、数メートル先の横断歩道の前で、史人さんがこちらを振り返った。
その彼に向かって俺はとっさに不満顔を作る。その俺の顔をしばらく見つめてから、史人さんがすうっと目を眇めた。
「本気にすんなよ、ガキ」
嘲るような、そんな声だった。そうされて……かっとなった。
薄く笑ってこちらを見る、その取り澄ました表情を見続けるのも嫌で、俺は走り出した。信号が青になったのをいいことに、むかつくやつの隣をすり抜け、横断歩道を渡り切る。
「おーい、怒っちゃった? 千冬ー」
能天気な声が背中を追いかけてきたけど、振り返ってやるつもりなんてなかった。
部活帰りでへろへろなのに、こんなに走らされて、本当にむかつく。
しかも、なんか泣けてくる。
「大っ嫌いだ。史人さんなんて」
わけもわからぬまま浮かんでしまう涙を拳で押さえ、俺は猛ダッシュで帰宅した。
この一件があってから、史人さんは俺に声をかけてこなくなった。家に遊びに来ることもなくなった。
それどころか、彼女までできたようだ。
「巨乳でフライフラワーズのすももちゃんに似てる子だった」という情報を、史人さんのことをかっこいいときゃあきゃあ言っていた、女子達から聞いた。
「俺、全然巨乳じゃないじゃん」
本当に腹が立つ。
あんな人のことを目で追っていた自分が一番。
以来、俺は史人さんを視界から消したし、この先会うつもりもなかった。
……なかったのに。
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