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第10話 「ごめん」

 必死に出そうとした声に荒々しい声がかぶさったのはそのときだった。え、と声の主を確かめるより先に、金色の風がざっと俺の脇を通り過ぎる。遠ざかっていくのは、ライトグレーのブレザーを着た背中。  相手は自転車だというのに、ものすごい勢いで追いかけていくその後ろ姿を、俺は呆然と見送ることしかできない。  とはいっても相手は自転車だし、追いつくわけない……と思っている間に、通りの先にある横断歩道で信号が赤になった。急ブレーキをかけた自転車に史人さんが迫る。遠く、史人さんとフードを着た自転車の男がもみ合っているのが見え、俺は慌てて立ち上がった。 「史人さん!」  大声で名前を呼びながら走るが、まだ遠い。行き過ぎる車のヘッドライトに照らされたふたりが俺の鞄を取り合っている。自分の足の遅さにいらいらしたとき、史人さんの手が俺の鞄を奪い返すのが見えた。と同時に、ぱっと信号が青に変わる。 「おいこら! 待て!」  史人さんが叫ぶが、男は振り返らない。あっという間に走り去り、追跡を阻むように再び信号が変わり、洪水みたく車が流れ出す。 「くっそ、逃がした」  忌々しげに舌打ちしながら、自転車男の姿を横断歩道の向こうに探す史人さんの腕を、俺は思わず掴む。すっと視線がこちらに向けられる。激闘の後だからなのか鋭い光が宿る目を見て、どくっと胸が鳴った気がした。  ……なんだ、今の……。  意味がわからなくてどぎまぎする。ああっと……、と言葉を探している俺の前で、ふっと史人さんの目が解けた。 「ごめん、逃げられちゃった。けど、鞄はほら」  笑顔と共に鞄が差し出される。おずおずと手を伸ばし、受け取ろうとする。が、その手がいきなりぐいと掴まれた。 「え、あの、なに……」 「怪我、してんじゃん。これ、さっき転ばされたときの?」  声のトーンがぐっと下がる。いつものあっけらかんとした声音では全然なくて、俺はまたもおたおたしながら、右の掌に視線を落とす。さっき地面に手を突いたときにすりむいたようだ。けど、それほど血も出ていない。ちょっと赤くなっているくらい。 「あー、うん。それっぽい。でも、全然、大丈夫……」 「大丈夫じゃねえだろって。痛くない?」  大きな両手が俺の肩手を包み込む。じわっと体温が手に沁みてくるのを感じ、俺は慌てて手を引っ込めようとする。が、史人さんは放してくれなかった。 「あのちょっと……」  言いかけて、そこで気付いた。 「史人さんこそ怪我してんじゃん!」  俺の手を包む彼の右手の親指のつけねから血が滲んでいる。こすれたみたいなひっかき傷だ。指摘されて気付いたのか、史人さんの手がするっと俺の手から外れた。どうでもいいものを見るみたいな目でまじまじと傷口を眺め、へらっと笑う。 「あー、ほんとだ」 「ほんとだ、じゃなくて! 血出てんじゃん!」 「痛くないって。それより、千冬のほうが痛そうだし」 「痛くない!」  言いざま、俺は史人さんの腕に引っ掛かったままだった自分のバッグをひったくった。 「店、戻ろ。救急箱あるし。それ、手当しなきゃ」 「大げさ。俺のはいいって。千冬のを……」 「うっさい! 四の五の言わず来いってば!」  大声を出すと、ふっと史人さんが口を噤む。そうされて俺も頭が冷えた。  考えてみれば、ひったくりに遭った俺のためにこの人は全力で犯人を追いかけて鞄を取り返してくれたのだ。なのに俺ときたら、怒鳴ってばっかりでまだお礼のひとつも言えていない。謝っても、いない。 「あの……」 「ごめん」

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