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第44話 何時代だ、この野郎。
「ない、ですけど」
兄ちゃんは何度も史人さんの家に行っているけど、俺は一度もない。誘われたこともない。
「それならわかんないでしょ。史人がどれだけ苦しい思いしてるか。あたしは知ってるの。子どものころから家ぐるみで付き合いがあるから。あんた、兼人さんのことだって知らないんでしょ」
「史人さんのお兄さんの話ですよね。知ってます」
「啓介くんに聞いたからでしょ? そんなの知ってるうちに入んないよ。あのね、兼人さんが家を出ていったとき、兼人さんの恋人って人が挨拶に来てたの。その恋人に史人のお父さんが言った言葉、教えてあげようか」
実弥さんの目がすうっとこちらを見る。背もたれに預けていた体を起こし、くっとこちらに向かって身が乗り出された。
「消えろ、ゴミムシが」
耳にしたと同時に胃がきゅっとなるのを感じた。
言われたのは俺じゃない。でも……汚水を頭から浴びせられたような、そんな気がした。
「親族間の話だからね、うちの家にも兼人さんの話はすぐに伝わってきた。聞いて史人のとこ飛んでったよ。だって、史人もゲイだもん。目の前でそんなの見せられて普通でいられるわけないって思ったから」
胸がざわざわする。それを押さえるように俺は必死に自分の制服の胸の辺りを掴む。実弥さんはそんな俺をちらっと流し見てから続けた。
「思った通り、史人、憔悴してた。だから提案したの。お父さんに史人がゲイだってばれないように、あたしが彼女のふりしてあげるって」
――好きなやつのこと父親に知られたら、そいつが兼人さんの恋人と同じ目に遭わされるかもしれない。だから……カモフラージュで実弥に彼女のふり頼んだんだって。
実弥さんの言葉に、昨日兄ちゃんから聞いた話が重なる。
なんなんだ。本当に。それ、なんなんだ。何時代だ、この野郎。
ああああもう! むかつく! むかついてむかついて、吐きそうだ。
「ね。わかるでしょ。あんたが出てくると、史人が兼人さんみたいに傷つけられちゃう。あたしならちゃんと守れる。だから」
「ゲイ、やめたってのは?」
短く問うと、実弥さんの綺麗に整えられた眉がぴくっと震えた。
「史人さんがそう言ったんですか?」
「……そうだよ。史人がやめたって言った」
挑むような目がこちらを見据える。真剣で強い、目。その目に俺は怯んだ。
俺がたじろいだのがわかったかのように、実弥さんはさらに声を重ねてくる。
「だからあたしが教えてあげてる。女の子と付き合うってどういうことかって。だってそのほうが絶対楽に生きられるもん。ってかさ、あんた、史人とキス、したことある?」
いきなりの台詞に俺は固まる。その俺をぱっちりとした実弥さんの目が覗き込んできた。
「あたしはあるよ。練習させてあげた。ちゃんと女の子好きになれるように。ね、史人、ゲイはもうやめたの。それ……」
「ごめん、なさい」
ぽろっと口をついて謝罪が出る。実弥さんが大きな目をゆっくりと瞬いた。
息が苦しい。なんだか頭まで痛い。ぐるぐるする。
「そういうの、聞きたく、ないです」
俺がそう言ったとたん、テーブル越し、手が伸びた。ぐいっと胸倉を掴まれる。女子とは思えない力に俺は戦く。
「あんたさあ、好きな人の幸せってやつ、願えないの? それってほんとに好き?」
好きな人の幸せ。
俺には、よくわからない。経験もないし、史人さんがしんどいときに俺はそばにいてあげられたわけでもない。
その意味で俺はこの人より……あの人を幸せにはしてあげられないかもしれない。
そもそも幸せってなにか、俺にはわからない。
ただ、ただ、思うんだ。
やっぱり全部、おかしいって。
「幸せとかそんなの知らない。でも……そのやり方じゃ、史人さんは笑えないって思う。俺はそれは嫌だ」
こちらを睨んでいた実弥さんの目が揺れる。その彼女の手をそうっと俺は解く。そうして頭を下げた。
震える足を動かし、なんとか部屋を出る。襖を閉めて歩き出す。けど少し歩いただけでその場にへたり込みそうになった。
思った以上に緊張していたみたいだ。ヤバい、足がうまく動かない、と慌てていると、いきなり声をかけられた。
「出口はここの廊下、まっすぐ行って右だよ」
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