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第60話 「見せたいくらい」

 柔らかい声に打たれたように俺は息を呑む。 『いろんなこと、怖かった。俺のせいで千冬が傷つけられたら、とか。このままの俺でいていいのか、とか。でも、思っちゃった。千冬と離れたくない、ぎゅってしたいって。ほかのやつじゃなくて、俺が……絶対』  ああ、どうしよう。声が出ない。その俺の耳元で、ふふ、と小さく史人さんが笑った。 『顔見て言おうと思ったんだけど、なんかハズくて。なんだろーね、俺としたことが』  だめだ。頭が全然働かない。どきどきして、立っていられない。ふらつきながら近くの壁によりかかる。 「時間ちょうだいって、この、話?」 『うん。ちゃんとカフェとか? そういうとこで改まって言おうと思ってたんだけど、千冬にあんなこと言われたら、なんかもう言いたくてたまんなくなっちゃって』 「あんなこと?」  俺、なんか特別なこと言ったっけ、と悩む俺の耳に落ちたのは、はにかんだような掠れ声だった。 『そばにいてくれてありがと、って。そんなの、こっちの台詞だって思っちゃった、から』  ああ、ああ、もう。  俺は壁に背中を預けたまま片手で顔を覆う。 「戻ってきてよ、史人さん」 『え、あ、うん。でもその、ハズい、んですけど』 「ハズくてもいいから戻ってきて! ってか助けて!」 『助ける?』 「腰、抜けちゃって動けないんだってば! うれしくて! だから!」  怒鳴ると、史人さんが絶句した。ややあってぷつっと通信が途切れる音が響く。ずるずると俺は壁に背中を預けて蹲る。  俺ってば顔が真っ赤だ。けど幸いにも廊下に人の姿はない。そのことにほっとしながら三角座りをして膝に顔を埋めていると、走ってくる足音が聞こえてきた。 「千冬?」  声とともに俺の傍らにふわっと迫ったのは、なにかの花みたいな史人さんの香りだった。  そこでふっと思い出す。この人が以前着ていたTシャツに描かれていた、青白い花のシルエットを。  秘めた愛、という花言葉を持つあの花。あの花からはもしかしたら、史人さんが今、身に纏っているのと同じ、清しい香りがするのかもしれない。 「ちょ、ガチで腰抜けてんの? 立てる?」 「立てない」 「マジか……。ええと、じゃ、じゃあ、ちょっと」  言いながら史人さんがそうっと俺の脇の間に腕を通す。くいっと体が史人さんのほうに寄せられてどきっとしたものの、膝裏にも腕が通され、地面から体が浮き上がる段になって仰天した。  こ、こ、これ、姫だっこされてないか?! 「わ! わ! わ!」 「こら、暴れんなって」  史人さんが、よいしょ、と俺を抱え直して言う。そうされて俺はますます身をよじった。 「おろ、下ろして!」 「だって、歩けないんだよね?」 「歩ける! 今なら競歩の大会にも出れる! だから!」 「競歩って」  くっくっと笑いながら史人さんは廊下を進む。角を曲がったところに更衣室がある。あそこには他の参加者もいるかも、こんなとこ見られて大丈夫か? とじたばたする俺の心が見えたみたいに、いいよ、と史人さんが言った。 「俺は見られたっていい。てか今や見せたいくらい。千冬がそばにいてくれるの、うれしくて仕方ないから」  ……そんなこと言われたら、下ろしてって言えないじゃん。  ぷうっと頬を膨らませる俺を史人さんがちらっと流し見る。背筋がぞくっとするくらい、色っぽい目で見られて、ますます顔が赤くなった俺を、史人さんはしばらく見つめてから、ゆっくりと俺の体を床に下ろしてくれた。 「はしゃぎすぎちゃった……ごめんね」  なんでそんな寂しそうな顔で笑うんだか。この人ってば。 「はしゃいでいい! 俺もはしゃいでるから! お揃い!」  感情のままに手を伸ばし、史人さんの手を掴む。そのまま、その手を引っ張って、更衣室へと向かう。 「き、着替えて、なんか食べに行こ!」 「その前に結果発表あると思うよ」  史人さんの声が滲んでいる。俺の手を握る手にもきゅうっと力が籠る。 「もはやどうでもいい!」  史人さんからの声と手の力に目を潤ませつつ、店長に聞かれたら怒られそうなことを言って、俺は更衣室のドアを開けた。

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