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第64話 「普段男前なのに、こういうとき、そんな顔、すんの反則……」

 目を開くと、いつの間にか虹彩の模様さえ見えちゃいそうな距離に顔があった。くらくらしながら俺は言う。だって、これを言っておかないと、史人さんをがっかりさせちゃうかもしれない。 「その……俺、初めて、なんです」 「え、あ……はい」  敬語で訴えると、史人さんが神妙に返事をした。めちゃくちゃ近い距離のまま。なんだかおかしな状態になってるけど、仕方ない。 「史人さんみたいに、な、慣れてない、ので、上手にはできないですけど、いい、ですか」 「ええ、と」  史人さんの声に困惑が滲む。しばし思い悩むように黙ってから、史人さんがそろそろと言った。 「すみません、俺も初めてですが……いいでしょうか」 「は?!」  初めて?! 初めてって言ったか?!  いや、でも、だって……。 「実弥さんとキスの練習してたって聞いた!」  史人さんの腕に抱き寄せられたままなのも忘れて叫ぶと、史人さんが苦しげに眉を顰めた。 「それ、実弥が言ったんだよね」 「え、あ、まあ……女の子に慣れるため、とか」 「そっか」  くっと唇を軽く噛む。この人の癖だけど、俺はこれを目にすると、いつも唇切れちゃうんじゃッて心配になる。 「確かに練習しようって言われた。でも断った。さすがにそこまでできない」 「じゃあなんでもっと早く否定しなかったんだよ!」  あの練習のキス云々のせいで、俺がどれだけ胸を痛めたかわかってんのか!  怒り狂う俺から、史人さんは眼球だけ動かして、目を逸らす。 「俺が実弥に最低なこと頼んでたのは本当だし。してないからって罪が軽くなるってもんでもないから。疑われても仕方ないかなって」 「はああああ?!」  仕方ないわけあるか!  やっぱり賢いくせに馬鹿だ。だってキスだぞ! そんなの、してないほうがいいに決まってるだろうが!  ああもう、腹が立つやら安心したやらで、感情がてんやわんやだ。苛立ちをぶつける場所がなくて、こつこつ、と史人さんの額に額で数回頭突きする。それこそヤギの挨拶みたいに。が、後ろ頭に添わされた手によって耳たぶをそっとなぶられて、やめた。 「呆れた?」 「呆れては、ない」  ……むしろ、ほっと、した。  けどそれを言うのもなんか癪に障る。ぷりぷりしている俺を史人さんがそうっと見上げてくる。 「ごめん。そういうわけで、誰ともしてないです」 「はあ……」 「だから……俺も上手にはできないですが、もう我慢できないので、して、いいですか」  ……ほんと、なんなんだ、この人。  そんな熱っぽい目で言われて、嫌です、と言えると本気で思っているんだろうか。  大体、我慢できないってなんだ。そんなの……そんなのさあ。 「俺もなので、どうぞ」 「なんこれ」  くすっと史人さんが笑う。悔しいけど、俺も笑ってしまった。ひとしきり肩を震わせてから、俺達はもう一度見つめ合う。  くいっと史人さんの手が俺の頭を引き寄せ、顔が近づく。  キスするときは目を閉じるもの、なんて、ただの知識で、そんなこと知らなくても、思わず閉じちゃうものなんだってことを、俺は初めて知った。  ただ、ごちゃごちゃ考えていられたのはわずかの時間で、思考は全部、砕け散ってしまった。  温かい唇がふわりと俺の唇を覆ったその瞬間に。  引き締まって見える、史人さんの唇。でも全然、見た目通りの感触じゃない。柔らかくて……触れているだけでくらくらする。そのふわふわの感触はしばらく俺の唇に留まった後、そうっと解けるように離れていく。  急に唇が寒くなって目を開けると、鼻先が触れそうな距離で、史人さんが吐息みたいな声で言った。 「ヤバいね、これ」 「ん……え、なに、が」 「めっちゃ気持ちいい。もっと、もっと……したくなる。千冬は、どう?」  なに、恥ずかしいこと言ってんだこの人!  めちゃくちゃ近い位置で囁かれて一気に頬に熱が集まる。  でも……でも、否定、でき、ない。 「千冬?」 「……も」 「なに?」 「おれ、も」  ん?と史人さんが首を傾げる。ああもう、口角がほんのり上がったその顔。絶対、俺が言いたいことわかっている。なのに、俺が全部言うまで黙っていようって思っている顔だ。  腹立つ! でも、俺は、もういいって頬を膨らませてそっぽを向けない。  だって。 「もうちょっと、したい」 「もうちょっと? 少しでいいってこと?」  俺の言葉を史人さんが掬い取る。言葉尻を取るみたいなその台詞に、爆発しそうなくらい顔が熱を放った。  そうだ、この人、こういう意地悪も言う人だった。あああ、もう。 「やだ……」  もう、もう無理。恥ずかしい。  そう思うのに、俺の手は史人さんの体を押しのけようとしない。  それどころか、史人さんの肩にかけていた手にきゅっと力を込めさえしてしまう。 「もっと、した、い……。わかってるくせに意地悪、言わないで、よ。史人、さん」  やっとのことでそう言うと、目の前で史人さんがふっと息を呑んだ。 「普段男前なのに、こういうとき、そんな顔、すんの反則……」  言いざま、くっと史人さんの手に力が籠る。荒っぽいくらいの強い力で後ろ頭が引き寄せられ、熱い唇に唇がさらわれる。  さっきもしたのに、そのときの温度を超える熱い感触に、足元が崩れそうになった。  ふらつく俺の腰に史人さんが片腕を回す。引き寄せられて、倒れ掛かるみたいに体重を預けるその俺の唇を史人さんは何度も唇で嚙む。上唇を挟み、下唇を吸い、絡ませるように何度も何度も。  その必死とも思えるキスに理性なんて保っていられなくて、くぐもった声が漏れてしまう。 「んっ……ふっ……んんっ」  史人さん。好き。  言いたいのに、言えない。全然、言葉にならない。  ただ、すごく史人さんを近くに感じる。それは物理的にってことじゃなくて心と心がキスによって手を繋ぐ。絡み合う吐息が同じ色に染まっていく。  ハグよりも強く、近い場所にお互いを感じる。  史人さんも同じ感覚だろうか。確かめてみたくなったけど、それはもう少し後でいいかもしれない。  今はもうちょっと目を瞑って、感じていたいから。  唇から注がれる大好きな人の熱に、俺が少しは慣れて、まともな思考ができるようになるまで。

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