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#70: 霧の中の再会と秘められた素顔: 記憶を失った恩人と、すべてを捧げるルーシャの誓い

「彼を担当に? 冗談じゃない、ルーシャ。君はまだ見習いだぞ」 リンカーン記念病院の薄暗い廊下で、執刀医の冷めた声が響いた。手術室の明かりが消え、運び込まれたばかりの男——アルバートの処置がようやく終わったところだった。 ルーシャは白衣の胸元を強く握りしめ、震える声で食い下がった。 「お願いします、先生……! 彼は僕の、大切な人なんです。だから、どうか看病をさせてください……!」 「大切な人?」 医師はカルテをめくりながら、怪訝そうに眉を寄せた。 「では聞くが、彼のフルネームは? 年齢は? 自宅の住所や家族の連絡先は?」 「それは……」 ルーシャの息が止まった。喉の奥が熱くなり、言葉が出てこない。 (アルバート……さん。ファミリーネームは……? 年齢も、出身も……何も知らない) あれほど甘く、夢のような夜を共に過ごし、胸の奥底で密かに、熱く想い続けてきた最大の恩人。それなのに、自分は彼の「名前」以外、何一つ知らなかった。 その残酷な事実に、ルーシャの胸が痛く抉られる。唇を震わせながらも、彼は必死に顔を上げた。 「……名前しか、知らないんです。でも、絶対にアルバートさんです! 僕が責任を持ちます。医療費も、僕が何とかしますから……どうか、お願いします!」 ルーシャの瞳には、抑えきれない切実な想いが溢れていた。その熱に気圧されたのか、医師は長いため息を吐いた。 「……わかった。身元不明のままになるが、君が付き添うことだけは認める。それと、これをなんとかしてくれ」 医師が顎で示したのは、部屋の隅に置かれた籠だった。中には泥にまみれ、ぐったりと丸まった小さな生き物がいた。 「列車事故のとき、その男が身を挺して庇っていたアライグマだ。病院に置いておけない。どこかへ捨ててこい」 「嘘……」 ルーシャは籠に駆け寄り、震える手でその小さな体をそっと抱き上げた。 「クリリン……! お前、クリリンじゃないか……!」 ロンドンの動物園で預けていた、あのアライグマだった。クリリンは弱々しく「きゅぅ……」と鳴き、ルーシャの胸に顔を埋めてきた。 ルーシャは涙を堪えながら、クリリンの小さな温もりをきつく抱きしめた。アルバートがこの子を守ろうとして重傷を負ったのだと思うと、胸が熱く締め付けられる。 ルーシャはクリリンを片腕で抱いたまま、手術室の隣の病室へ視線を移した。ガラス越しに見える、ベッドに横たわる大柄な男の姿に、胸の奥が激しく疼いた。 (今度は僕が、あなたを守る番です……) ◇ 数日後、アルバートがようやく意識を取り戻した。 ルーシャは胸が弾ける思いでベッドに駆け寄った。 「アルバートさん……! よかった、目が覚めたんですね!」 しかしベッドの上の大柄な男は、虚ろで戸惑った目でルーシャを見つめた。そして掠れた声で、ぽつりと呟いた。 「……アルバート? それは……俺のことか?」 「え……?」 「俺は……誰だ? 君は……誰なんだ?」 ——記憶喪失。 すべての過去を失ったアルバートの瞳には、かつてルーシャを優しく包み込んでくれた深い慈愛の光はなく、ただ怯えた子供のような不安だけが浮かんでいた。 それでもルーシャは健気に看病を続けた。学校の合間を縫って付きっきりで世話を焼き、クリリンをそっと胸に抱かせると、記憶は戻らないながらも、アルバートの表情が少しだけ柔らかくなるのを感じた。 だが、いくら尽くしても、霧に包まれた記憶は一向に晴れない。 自分が何者かもわからず、見ず知らずの若い看護学生に負担をかけ続けているという事実に、アルバートの心は日に日に重い罪悪感に苛まれていった。 ◇ ——ある朝、ルーシャがいつものように病室へ向かうと、そこはすでに空っぽだった。 ベッドの上には、短い置き手紙が一枚残されていた。 『これ以上君の世話になるわけにはいかない。本当にすまない』 「まだ傷も治りきってないのに……! どこに行っちゃったの……!?」 胸が張り裂けそうな思いで、ルーシャはクリリンをコートの内側に慌てて忍ばせると、冷たいシカゴの街へと飛び出した。 ◇ 夜の帳が降りる頃。ルーシャは場末の薄暗いバーの片隅で、ようやくその大きな背中を見つけた。 寂しげにグラスを傾ける、どこにも行くあてなどなさそうな大柄な男の後ろ姿。 「アルバートさん!!」 肩で息をしながら駆け寄り、声をかけると、男が驚いたように振り返った。 「君は……。私はもう、これ以上君に迷惑を——」 「迷惑なんかじゃありません!」 ルーシャはきっぱり遮り、アルバートの目の前にすっくと立ち塞がった。 「だいたいおじ様、病院の医療費だってまだ払ってないじゃないですか! 記憶がなくて行く宛てもないからって、置き手紙一つで勝手に消えられると本当に困るんです。さっき僕が全額立て替えておきましたから!」 アルバートは目を見開いた。このまだ学生の少年が、自分のために高額な医療費をすべて払ってくれたことを知り、端正な顔が痛そうに歪む。 「……すまない。本当に、すまないことをした。身一つで何もない私には、今は返すあてがないが……必ず、返させてくれ」 「ええ、返してもらいます!」 ルーシャは男前な口調で言いながらも、アルバートの大きな手をそっと、けれど強く握りしめた。 「……いいですね? お金を耳揃えて返すまでは、絶対にどこにも行っちゃダメですから」 その強い瞳と言葉に、アルバートは記憶を失ったまま呆然としながらも、どこか救われたような、穏やかで優しい笑みを浮かべた。 「……わかった。約束する」 「よし! じゃあ、行きましょう!」 ルーシャは彼の大きな手を握ったまま、半ば強引に連れ出し、自分の暮らすアパートへと連れ帰った。 しかし、部屋の扉を開けた瞬間、ルーシャはハッと硬直することになる。そこは貧しい学生の、狭い四畳半ほどの部屋。 部屋の真ん中には、大柄なアルバートが横になれば、それだけで埋まってしまうような——小さなシングルベッドが、ぽつんと一つしか、無かったのである。 つづく — 一つしかない狭いシングルベッドで、アルバートと身体を寄せ合って眠ることになったルーシャ。毛布を分け合い、微かに触れ合う体温とふわりと漂う甘いオメガの匂いに、記憶を失ったおじ様の理性は激しく揺さぶられていく。 「……おやすみなさい、アルバートさん……」 次回 #71: レオノラの救済とベッドの境界線: 抑制剤で繋ぎ止めた理性と、触れ合う背中の背徳 「この子……近くで見ると、随分と可愛いな……」 お楽しみに!

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