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#72: サリーとの再会と届かない音色: 過去を背負う友人との邂逅と、オザンナの深い影

シカゴの片隅にある、お世辞にも広いとは言えない狭いアパート。 記憶を失ったアルバートと看護師見習いのルーシャは、なし崩し的に始まった共同生活を、いつの間にか自然に受け入れていた。一つしかないベッドに身を寄せ合う日々は、いつしか二人の「日常」になっていた。 そんなある日の朝。 「おや、ルーシャ。今日は随分と嬉しそうじゃないか」 いつものようにキッチンでコーヒーを淹れながら、アルバートが何気なく声をかけた。 ルーシャはハッと鼻歌を止め、みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染めた。気恥ずかしそうに身をすくめながらも、嬉しさが溢れて止まらない笑みがこぼれてしまう。 「実は……ニューヨークから、彼女がライブをしにこの街に来るんです」 「彼女……?」 その瞬間、アルバートの胸の奥がズキンと鋭く痛んだ。 なぜか息が詰まり、目の前が一瞬暗くなったような感覚に襲われる。体の奥底から込み上げてくる強烈な拒絶感と、胸が締め付けられるような苦しみ。 アルファとしての本能が、ルーシャの口から出た『彼女』という言葉を本能的に拒否していた。 しかし記憶のないアルバートには、その感情の正体がわからない。ただただ胸が苦しいことだけが、彼を苛んだ。 「……そうか。ルーシャには、素敵な彼女がいるんだな」 アルバートは無理に口角を上げ、引きつったような笑みを浮かべるのが精一杯だった。 「ええ! もう本当に可愛くて、自慢の恋人なんです!」 ルーシャは恋する少年の、その輝いた顔でそう言うと、弾むような足取りでアパートを飛び出していった。 部屋に一人残されたアルバートは、静まり返った空間にぽつんと立ち尽くした。 彼はゆっくりと自分の左胸に手を当て、深いため息を漏らした。 (私は……どうして、こんなに胸が痛むんだ……?) その痛みは、嫉妬と呼ぶにはあまりにも激しく、切なかった。 ◇ サリー・マクブライド——。(22話参照) かつてルーシャが密かに想いを寄せていた、歳上の初恋の人。 しなやかな肢体と涼やかな瞳、中性的な色気をまとった美しいアルファの女性。聖ファーガスン学院の元生徒会長であるジミーの実の姉であり、ルーシャにとっては特別な存在だった。 二人の間には、残酷な誤解があった。 ペンドルトン家の屋敷で使用人の「マディ」として虐げられていた頃、従妹のジュリアの策略によって引き裂かれ、サリーは「ルーシャに冷たく振られた」と信じ込まされていた。(24話参照) しかし、英国から逃げてきたジミーによってすべての真相が明かされたことで、長年の誤解はようやく解けた。 その後、二人はアメリカで再び手紙を交わし合い、距離を越えて想いを確かめ合ってきた。そして今——遠距離ながらも、恋人同士としての関係をスタートさせていた。 そんなサリーが所属するバンドが、ついにシカゴでライブを行う日が目前に迫っていた…… ◇ ルーシャの浮かれた様子は、リンカーン記念病院でも完全にバレていた。 カルテを整理している間もそわそわと落ち着かないルーシャを見て、同僚の看護師たちがにやにやしながら集まってくる。 「おいルーシャ、聞いたぞぉ? ニューヨークから可愛い彼女が来るんだって?」 「う、噂が早すぎますよ……!」 「いいよなぁ、羨ましいぞ!」 からかわれてルーシャは顔を真っ赤にし、カルテで顔を隠した。その様子がまた可愛いと、さらに笑いが広がる。 少し離れた場所で、それを見ていたレオノラ・フェントンは小さくため息をついた。 「……職場で浮つくなよ。プロ失格だそ」 冷たく言い捨てて去っていくレオノラの背中を見ながらも、今日のルーシャはそんな言葉すら心地よく感じていた。 ◇ そして、待ちに待ったその日がやってきた。 サリーたちのバンドを乗せた列車がシカゴ駅に到着する。ホームに降り立ったサリーは、荷物を抱えたまま足を止め、メンバーに言った。 「みんな、先に行ってて。私、ここで少し待ち合わせがあるの」 「え? サリー、シカゴに知り合いでもいるんだっけ?」 不思議そうに小首を傾げたのは、バンドメンバーのオザンナだった。イタリア出身の華やかなフルート奏者である彼は、実は密かにサリーへ淡い思いを寄せている。だからこそ、サリーのどこかそわそわした様子が気になって仕方がなかった。 「ええ。うん、ちょっとね」 サリーがはにかむように微笑むのを見て、オザンナはそれ以上踏み込めず、少し複雑そうな顔で「……そう。じゃあ、先行ってるね」とだけ言い残し、他のメンバーを促して先へと歩いていった。 一人になったサリーが人混みの中を見渡していると、遠くから必死に走ってくる見覚えのある姿が見えた。 「サリー!」 ルーシャは息を切らしながら駆け寄ると、迷わずサリーを強く抱きしめた。 久しぶりの再会に、二人の胸は熱く高鳴った。 ◇ その後、二人はシカゴの街へ繰り出した。ルーシャが夕食に選んだのは、アルバートが皿洗いをしている近所のレストランだった。 遠くの席で楽しそうに笑い合うルーシャとサリーの姿を、厨房の奥からアルバートはじっと見つめていた。お似合いの二人。笑顔で寄り添う姿は、誰が見ても恋人同士にしか見えない——。その光景が、アルバートの胸を激しく締め付ける。理由のわからない黒い感情が、胃の底でぐるぐると渦を巻いていた。 食事が終わり、夜も更けた頃。 ルーシャはサリーを宿泊先のモーテルまで送った。エントランスで、サリーは名残惜しそうにルーシャの袖をそっと引いた。 「ねえ、ルーシャ……もしよかったら、私の部屋に寄っていかない?」 上目遣いに見つめてくる瞳は、はっきりと恋人としての夜を欲していた。しかしルーシャの頭に浮かんだのは、狭いアパートで一人待っている大柄な男の姿だった。 「……ごめん、サリー。明日、朝が早いんだ。だから今日は帰るね」 ルーシャは自分でも驚くほど、はっきりとした声でそう言っていた。 「……そう。わかった。おやすみ、ルーシャ」 サリーは少し寂しげに微笑むと、静かに部屋へ戻っていった。 ルーシャはモーテルの明かりを見つめたまま、胸の奥で小さく息を吐いた。 (……どうして、断っちゃったんだろう) その答えが、自分でもまだよくわからなかった。 つづく — サリーのシカゴ公演のリハーサルを見守るルーシャ。しかし、突如として天井の巨大なステージ照明が破断し、サリーの真上へと落下し始める。その時、彼女の姿を常に捉えていたオザンナが、咄嗟にサリーを突き飛ばして身代わりとなった。 「サリー、危ないっ!!」 次回 #73: ステージの惨劇と奪われたフルート: 降ってきた照明器具と、オザンナの絶望の両手切断 「僕の、手……フルートが、吹けない……。サリー、僕は、もう……」 お楽しみに!

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