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#76: カウンターの誘惑と午前二時の猜疑心: チョーカーを外すオメガと、罪悪感に震えるアルバートの
休日に遊園地へと出かけたルーシャとレオノラ。そこで切り出されたのは、レオノラのカミングアウトだった。戸惑いを隠せないルーシャは帰り道、食事の誘いを断わってしまう。噛み合わないままの夜、レオノラは一人きりでバーへと足を向けていた。
◇
薄暗いバーのカウンターで、琥珀色のウイスキーを傾けていたレオノラは、ふと隣の男に視線を移した。
「今日は……振られちゃったんだ」
レオノラがぼそりと零すと、男はグラスを回す手を止めてこちらを見た。整った顔に、面白そうな笑みが浮かぶ。
「振られた? 君が?」
低く艶のある声だった。レオノラは自嘲気味に肩をすくめた。
「遊園地に誘って、その後食事に誘ったのに……あっさり断られたよ。『今日はもう帰る』だって。理由も言わずに」
男はくすりと笑った。
「それは痛いな。せっかく勇気を出したのに」
レオノラはグラスを傾けながら、珍しく饒舌になっていた。酔いの勢いもあって、次々と本音が零れ落ちる。男は静かに聞き役に徹し、優しい目でレオノラを見つめ続けていた。
やがて会話の切れ目に、男が静かに口を開いた。
「俺はアルバートだ。……君の名は?」
不意に名前を尋ねられ、レオノラは少し意地悪く微笑んだ。
「さあ……忘れちゃったな」
わざとはぐらかすレオノラに、アルバートは目を細めて小さく笑った。
「まるで本当に忘れたみたいな言い方だな」
「そうそう、記憶喪失ってやつかな」
冗談めかして笑うレオノラだったが、隣の気配が急に冷たくなったのを感じて顔を上げた。
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アルバートの表情から、先ほどまでの余裕が完全に消えていた。ひどく暗く、重い瞳がレオノラを捉えている。
「……冗談、だろ?」
低く沈んだ声に、レオノラの笑みが凍りついた。
アルバートはグラスを静かに置き、掠れた声で続けた。
「俺は、本当は記憶がないんだ。アルバートっていうのも、みんながそう呼ぶからそうなんだと思ってるだけで……本当は何も覚えていない」
「あ……ごめん。ただの冗談のつもりで……」
しどろもどろに謝るレオノラを見て、アルバートは小さく息を吐き、自嘲するように唇を歪めた。
「いや、いいんだ。冗談なら」
その静かな告白に、レオノラは胸が締め付けられるのを感じた。罪悪感と、痛ましさが一気に込み上げてくる。
「本当に、ごめん……」
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酔いと後悔、そしてこの男への同情が混ざり合い、レオノラの胸の奥を熱くした。彼は首元に手をやり、チョーカーをゆっくりと外した。
細い首筋が露わになると同時に、甘いオメガのフェロモンが静かにバーの中に広がっていく。
「……慰めてあげようか?」
掠れた声でそう囁くと、アルバートは一瞬だけ目を細めたが、すぐに静かに立ち上がり、レオノラの手を取った。
二人はそのまま、夜の闇に溶けるようにバーから消えていった。
◇
一方、アパートではルーシャは一人、ベットの脇に座って時計を気にしていた。
もう夜中の二時を回ろうとしているのに、アルバートは帰ってこない。
(どこに行ってるんだろう……)
不安が膨らむ——。胸の奥がざわついて眠れない。結局その夜、ルーシャはほとんど眠れぬまま朝を迎えた。
病院に着くと、予告通りレオノラは冷たい顔で廊下を歩いていた。すれ違った瞬間、昨日一緒に遊園地で笑っていた人とは思えないほど、氷のような視線がルーシャを素通りした。
「……おはよう、レオノラ」
ルーシャが小さく声をかけても、レオノラは無言で通り過ぎた。その背中を見送りながら、ルーシャの胸にちくりと痛みが走った。
◇
その日の夜遅く、ようやくアパートのドアが開いた。
「アルバートさん!」
ルーシャは慌てて玄関に駆け寄った。アルバートは少し疲れた顔をしていたが、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
「遅くなってすまない。心配かけたな」
「どこ行ってたの? すごく心配したよ……」
ルーシャが上目遣いに見つめると、アルバートは一瞬、目を逸らした。
「……もしかして、記憶が戻ったとか?」
その質問に、アルバートの表情がわずかに強張った。彼は苦しそうに首を振り、掠れた声で答えた。
「いや……昨夜のことは、よく覚えていないんだ。ごめん」
その言葉はどこか不自然で、取り繕っているように聞こえた。ルーシャは胸がざわついたが、アルバートがあまりにも苦しそうな顔をしているのを見て、それ以上追及することを諦めた。
「……無理に思い出さなくていいよ。ごめん」
ルーシャはそう言って、アルバートの大きな手をそっと握った。アルバートは驚いたように目を見開いたが、何も言わなかった。
そのまま二人はいつものように、一つしかないベッドに入った。
ルーシャはアルバートの広い胸に顔を寄せ、小さな声で呟いた。
「もう、急にいなくなったりしたらダメだからね。本当に……心配したんだから」
そう言いながら、ルーシャは軽くアルバートの胸をぽんぽんと叩いた。その仕草が愛らしくて、アルバートの胸の奥が熱くなった。
しかし、彼はルーシャを抱き寄せることはできなかった。指先がわずかに震え、ルーシャの背中に伸ばしかけた大きな手が、途中で止まる。
アルバートは天井を見つめたまま、静かに目を閉じた。
ルーシャの寝息が規則正しく聞こえてくる中、彼の胸には言いようのない罪悪感と、得体の知れない焦燥だけが残っていた。
つづく
—
クリスマス休暇にニューヨークへ向かう列車に飛び乗ったルーシャとレオノラ。しかし、途中で激しい猛吹雪に襲われて列車は運休、同行していたレオノラと二人、キングサイズベッドが一つだけの狭い密室に泊まることになり……。
「……私は構わないが、ルーシャ、は?」
次回
#77: 雪原の足止めと最後の一室: 猛吹雪が閉ざした密室と、カバンを失ったルーシャの焦燥
「だ、大丈夫……!」
お楽しみに!
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