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#80: 安宿の哀願と不意の拒絶: 思い出を乞うサリーと、女を抱けず逃げ出すルーシャの恐怖

ロウアー・イースト・サイドの安宿。狭い部屋の窓を、冬の冷たい風が激しく揺らしていた。 突然のノックに、ルーシャは弾かれたようにドアを開けた。 息を切らし、髪を乱したサリーがそこに立っていた。コートも着ていないその姿に、ルーシャは息を呑んだ。 「サリーさん……!」 名前を呼ぶ間もなく、サリーはルーシャの胸に勢いよく飛び込んできた。 「ルーシャ……! ずっと、会いたかった……」 震える声と、必死にしがみつく細い腕。ルーシャは戸惑いながらも、ずっと想い続けていたその背中にそっと腕を回した。 サリーはルーシャの胸に顔を埋めたまま、掠れた声で囁いた。 「ルーシャ……お願いがあるの」 濡れた瞳でルーシャを見上げ、サリーは震える声で哀願した。 「今夜だけでいい……私を抱いて。私に、思い出をちょうだい……」 その言葉は、切実で、どこか悲痛だった。 ルーシャの胸が激しく高鳴った。愛しい人が、自分を求めている。その事実に突き動かされるように、ルーシャはサリーを抱き寄せ、狭いベッドへと倒れ込んだ。 熱に浮かされたように唇を重ね、震える指でサリーの衣服のボタンを外していく。白く柔らかな肌が露わになるにつれ、二人の吐息が荒くなっていった。 しかし—— ピタリ、とルーシャの指が止まった。 頭の奥で、何かが大きく軋む音がした。 先ほどまでの熱が嘘のように冷め、代わりに得体の知れない恐怖が足元から這い上がってくる。喉がからからに干上がり、冷や汗が一気に噴き出した。 サリーの熱い視線を感じているのに、手が動かない。触れることが、急に恐ろしくなった。 (……なんで……? どうして、こんな……) 「ごめん……」 ルーシャは弾かれたようにベッドから飛び起きた。 「え……ルーシャ?」 「ごめん……僕には、できない……!」 サリーが慌てて手を伸ばそうとするのを振り払い、ルーシャは上着を掴むと、ほとんどパニック状態で部屋を飛び出してしまった。 残されたサリーは、乱れた衣服のままベッドに取り残され、呆然とドアを見つめることしかできなかった。 ◇ バタン、とドアが閉まる音が、狭い部屋に虚しく響いた。 乱れた衣服のままベッドに取り残されたサリーは、ゆっくりと膝を抱え込んだ。愛する人に、女として拒絶された——その事実は、彼女の心を容赦なく切り裂いた。 「……ルーシャ……」 ポロポロと、音のない涙が頰を伝う。サリーは唇を噛み締め、震える肩を抱きしめた。オザンナを裏切ってまでここに来たのに、最後の望みすら叶わなかった。胸の奥が冷たく凍りつき、ただ静かに、音もなく泣き続けた。 一方、冬のニューヨークの街をあてもなく彷徨うルーシャは、深い混乱と自己嫌悪の底に沈んでいた。 「どうして……?」 白い息が夜の闇に溶けていく。ルーシャは路地裏の壁に背を預け、頭を抱えた。 「サリーさんがあんなに求めてくれていたのに……僕、触れられなかった。触れたくなかったんじゃない。触れたいはずだったのに……手が、動かなかった……」 胸の奥が痛いほど締め付けられる。ずっと想い続けてきた人なのに、肝心な瞬間に身体が拒否した。理由がわからない恐怖と、自分自身への失望が、ルーシャを激しく苛んだ。 「……薬のせいか? 今朝飲んだ抑制剤の副作用……?」 そう自分に言い聞かせようとするが、それでも心の底から込み上げる得体の知れない「恐怖」と「違和感」は消えなかった。 (僕は……本当に、サリーさんのことが好きだったのか? それとも……) ルーシャは自分の手を見つめ、指先を強く握りしめた。 答えの出ない問いが、冷たい夜風とともに胸の奥を抉り続けていた。 ◇ 気まずさと混乱で行き場を失ったルーシャは、夜の街を彷徨った末、昨日駅で別れ際にレオノラから渡されたメモを頼りに、ブルックリンのアパートメントを訪ねていた。 「どうした? そんな顔して」 パジャマ姿のレオノラはルーシャの酷く落ち込んだ様子を見るなり、軽く舌打ちをした。 「しょうがないな。細かい話は後だ。外の空気でも吸いに行くか」 レオノラはルーシャをニューヨークの街に連れ回した。摩天楼やセントラルパーク、賑やかな通りを、いつもの軽快な調子で案内してくれる。レオノラの裏表のないペースに流されているうちに、ルーシャの凍えていた心は少しずつ溶けていった。 二人は喧騒から少し離れた小さなダイナーでコーヒーを飲んでいた。 「で?」 レオノラがストローをくわえたまま、意地悪くニヤリと笑う。 「お目当ての人には会えたのか?」 ルーシャはカップを見つめたまま、長い沈黙のあと、ようやく絞り出すように言った。 「……会えた。でも、逃げ出した」 「はあ? なんで」 「……女の人が、ダメなのかもしれない」 ルーシャは震える声で続けた。 「いざという時になって、どうしても体が動かなくて……触れるのが怖くなった。薬のせいかもしれないけど……」 重い沈黙が落ちた。 しかしレオノラは、まるで天気の話でもするような軽い口調で言った。 「なんだ。じゃあ君、実はゲイなんじゃないの?」 「……え?」 ルーシャは顔を上げた。 しかしレオノラは、まるで天気の話でもするような軽い口調で言った。 「女がダメなら、男が好きってことだろ。ニューヨークじゃ別に珍しくもなんともないぜ」 そのあまりにもストレートな言葉が、ルーシャの脳天に突き刺さった。 『ゲイ』 『男が好き』 その一言をきっかけに、これまで感じていた違和感のすべてが、一気に音を立てて繋がり始めた。 アニーとの距離感、ツェー(Tseh)に対する親しみ、そしてレオノラと一緒にいる今のこの心地よさ——。 思い起こせば……いや、しかしあれはスキンシップであって、SEXではない! ちょっと戯れた程度のものだ。誰だってあのくらいはする! ……なのに、女性とはそれができないのは……。 まるでパズルの最後のピースがはまるように、すべての辻褄が合っていく……。 (僕は……男が好きだったのか?) ——全ては、「自分はノンケ(異性愛者)だ」という、強固で無自覚な思い込みが引き起こした悲劇だった。 つづく — レオノラと別れ、重い足取りで安宿へと戻ってきたルーシャの前に現れたのは、かつて複雑な関係にあったジミーだった。 「もう、君たちも……ここで終わりにした方がいい」 次回 #81: 路地裏の告白とくすぶる残り火: 苦い真実を明かすルーシャと、家族を背負うジミーの葛藤 「今更何を言ってるんだよ……」 お楽しみに!

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