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#84: 冷めた熱情と産気づくジュリア: キスを拒むルーシャと、出産のカウントダウン

一つの枕に並んだ二つの頭。 さっきまではバターとミルクの甘い香りが部屋を満たしていたのに、今は男たちの激しい情交の残り香が、重く甘く淀んだ空気を支配していた。 シーツを腰に巻いたレオノラが、荒い寝息を立てるルーシャの横顔をじっと見つめていた。指先でそっと汗ばんだ髪をすくい上げると、レオノラは静かに口を開いた。 「……ねえ、ルーシャ。君、他に好きな人がいるでしょ」 唐突な問いかけに、ルーシャはびくりと肩を震わせた。 「どうして……そんなこと、聞くの?」 動揺を隠せない声で聞き返しながら、ルーシャはシーツを胸元まで引き上げた。 レオノラは自嘲気味に低く笑った。 「キス、させてくれなかったから」 「……っ」 核心を突かれ、ルーシャは息を詰まらせて視線を泳がせた。行為の最中、何度もレオノラの唇が近づいてきたのに、そのたびに顔を背けて拒んでしまった自分を、痛いほど自覚していた。 「だって……それは……」 言い訳を探して唇を震わせるルーシャの額に、レオノラはぽんと掌を置いた。その手つきは優しく見えて、どこか事務的だった。 「いいんだよ、ルーシャ。気持ちよくなりたかっただけなんでしょ? 生理現象なんだから。……いいんだよ、別に」 レオノラはベッドから身体を起こすと、床に落ちていた黒いチョーカーを拾い上げ、慣れた手つきで首元に戻した。冷徹な優等生の仮面を、再び被るように。 「これからも、僕たちいい友達でいられるよね。時々、こういうことしてもいいくらいの距離感でさ」 言いながら、レオノラはルーシャの頬を軽く指先で突ついた。 「また遊ぼうね、ルーシャ」 パタン、とドアが静かに閉まる音が響いた。 部屋に一人取り残されたルーシャは、灯りもつけずに暗闇の中で膝を抱えた。身体の疼きは綺麗に消えていた。それなのに胸の奥には、行為の前よりもさらに大きな、冷たい空洞が広がっていた。 満たされたはずの身体と、満たされない心の落差に、自己嫌悪がじわじわと込み上げてくる。 「おじ様……」 耐えきれなくなったルーシャはコートを羽織ると、フラフラと夜の街へ這い出した。 気がつくと、街外れの小さなレストランの前に立っていた。 ガラス窓の向こう、オレンジ色の照明の下でアルバートが忙しそうに働いている。客に笑顔を向け、皿を運び、同僚と言葉を交わして小さく笑うその姿は、穏やかで、まるでこの街に根を張ったかのようだった。 (おじ様……僕、他の男の人に抱かれちゃったよ……) ガラス一枚隔てた向こう側は、温かくて眩しい。 けれど、冷たい闇の中に立つ自分には、もうあのドアを開けて中に入る資格などないような気がした。 ルーシャは雪の降り始めた暗い夜の中で、愛しい人の背中をただじっと見つめ続けることしかできなかった。 ◇ 一方その頃、ニューヨークのペンドルトン邸では、もう一つの大きな運命が動き出そうとしていた。 豪奢な天蓋付きベッドの上では、出産を間近に控えたジュリアが、大きく膨らんだお腹を抱えて荒い息を繰り返していた。その傍らで、メイドのツェー(Tseh)が付きっきりで甲斐甲斐しく看病にあたっている。 その様子を、ドレスの裾を優雅に揺らしながら満足げに見守る人物がいた——ペンドルトン夫人、ヒルデである。 完璧に着飾った美しい貴婦人の姿をしているが、その本質は強大なアルファの男性だった。この屋敷の主人であるジュリアの父親もまたアルファであり、彼らはこの世界でも極めて稀な「アルファ同士の同性婚姻」を結んでいた。 そのためジュリアは、ヒルデにとって血の繋がらない夫の連れ子に当たる。しかし、ジュリアを妊娠させた相手は、あのジミーだった。 ジミーはヒルデの実の姉が産んだ息子——つまりヒルデにとって、目に入れても痛くないほど可愛がっている「実の甥」である。表向きは従兄弟同士の過ちに見えるが、実際には血の繋がりはなく、何よりジュリアが宿したこの子は、ヒルデにとって「一族の血を確かに引く、初めての孫(大甥)」ということになる。 もし相手がどこの馬の骨とも知れない男だったなら、ヒルデは容赦なく厳罰を下していただろう。しかし相手が最愛の甥の種と知った途端、話は全く別だった。 主人はこの複雑な事情に眉をひそめ、面白くなさそうに屋敷を留守にしている。しかしこの屋敷の実権を握っているのは紛れもなくヒルデだった。 普段は冷徹な「夫人」の仮面を被っているヒルデだが、今は内心で有頂天だった。最高級の産着や海外から特注したゆりかごを次々と買い漁り、密かにご機嫌で出産準備を進めている。 「ほら、ツェー。ジュリアの額を拭いてあげなさい。お湯の準備はできているかしら?」 いつになく浮き足立った様子で指示を飛ばすヒルデを、ベッドの上のジュリアが弱々しく微笑みながら見つめていた。 しかしその直後、ジュリアの表情が苦痛に歪んだ。 「……あっ、お母様……なんだか、急に……っ!」 シーツの上に、小さな水たまりが広がっていく。ついにその時が来たのだ。 「お医者様を! すぐにお医者様を呼びなさいッ!!」 屋敷中に響き渡る、アルファとしての威厳に満ちたヒルデの怒号。 新たな命が産声を上げるカウントダウンが、ついに始まった。 つづく — 学校の帰り際、校門の陰でレオノラを待ち伏せするルーシャ。 「僕はゲイだってカミングアウトしてるの知ってるよね?」 次回 #85: 募る快楽と下される判定: レオノラを待ち伏せるルーシャと、検査結果に揺れるペンドルトン家 「じゃあ、手を繋いで歩ける?」 お楽しみに!

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