91 / 95

#91: 凍てつくバレンタインと白日の吐き気: 消えたおじ様と、レオノラの冷たい宣告

シカゴの街が深い雪に閉ざされたまま、残酷なほど無為な時間が過ぎていた。季節は2月中旬——バレンタインデーを目前に控えた凍てつく冬の底。あのシチューをぶちまけられた絶望の夜から約一ヶ月間、ルーシャの生活は完全に泥沼と化していた。 ジミーは働きに出るという約束を反故にし、入り浸るカジノで負けてはルーシャの僅かな生活費をむしり取っていく。機嫌が悪い時は容赦なく暴力を振るい、その翌朝には「お前しかいないんだ」と涙を流して縋り付いてくる。 その激しい『飴と鞭』のサイクルに、ルーシャの精神はとうに限界を迎えていた。 逃げ出したい。けれど、毎夜のように強引に組み敷かれ、熱い飛沫を注ぎ込まれる暴力的な快楽と支配が、ルーシャの思考を濁らせ、手足を重い鎖で縛り付けていた。 (僕はもう、汚れてしまったんだ……) 諦めと自己嫌悪。 そんな暗闇の底を這うような日々の中で、ルーシャの心を辛うじて繋ぎ止めていたのは、ただ一つの小さな希望だった。 ——バレンタインデー。 街が華やかな空気に包まれるその日、ルーシャは小さなチョコレートの箱をコートのポケットに忍ばせ、冷たい風を切って歩いていた。 向かった先は、あの小さなレストラン。 遠くから眺めるだけでもいい。あの温かくて優しい「おじ様」の笑顔を見れば、凍りついた心が少しだけ溶けるような気がしたからだ。 しかし、ガラス窓の向こうをいくら探しても、大柄で穏やかなあの男の姿はなかった。胸騒ぎを覚え、ルーシャは思い切って店のドアを開けた。 「あの、アルバートさんは……」 カウンターでグラスを拭いていた初老の店主は、ルーシャの問いに怪訝そうな顔をした。 「アルバート? ああ、彼ならもう辞めたよ」 「え……?」 「先月の終わりくらいだったかな。急にね。行き先も分からないんだ」 頭の中が真っ白になった。 「辞めた……? いなくなった……?」 ポケットの中で、チョコレートの箱を握りしめる手がカタカタと震える。 僕の唯一の光だったおじ様が、何も言わずにこの街から消えてしまった。レオノラと一緒に夜の部屋へ消えていったあの日の後ろ姿が、彼を見た最後だったのだ。 「あ……ああ……っ」 ルーシャは店を飛び出し、雪の降る裏路地にへたり込んだ。 最後の心の拠り所が、音を立てて崩れ去っていく。冷たい雪が頬を濡らしても、もうルーシャには立ち上がる気力さえ残っていなかった。 ◇ 数日後。リンカーン記念病院は、消毒液と薬品の冷たい匂いに包まれていた。昼下がりの実習中。ルーシャの顔色は、誰の目から見ても異常なほど青白かった。 ここ数週間、ずっと微熱とだるさが続いていた。最初は「冷たい床で寝たせいだ」「ストレスで胃をやられたんだ」と思い込もうとしていた。 しかし、今日は違った。 (なんだか……気持ち悪い……) オメガ特有の鋭敏な嗅覚が、普段なら気にも留めないアルコールや薬品の匂いを過剰に拾い上げ、脳髄を直接かき回すような激しい吐き気を引き起こす。 「うっ……!」 突如として込み上げてきた強烈な吐き気に、ルーシャは口元を両手で覆い、指導医の声を遮って廊下へと駆け出した。 「おえっ……はぁっ、はぁっ……!」 トイレの洗面台にしがみつき、胃液を吐き出す。しかし、何も食べていない胃からは苦い液がこぼれるだけだった。冷や汗が全身から噴き出し、膝がガクガクと震える。 冷たい水で口をゆすぎ、荒い息を整えようと顔を上げた時だった。 「……酷い顔だね」 背後から掛けられた冷ややかな声に、ルーシャはびくりと肩を跳ねさせた。 入り口の壁に寄りかかり、腕を組んでこちらを見下ろしているのは——レオノラだった。 「レオノラ……」 「最近、ずっと様子がおかしかったけど。とうとう実習中に吐き気かい?」 黒いチョーカーをつけた首元。見透かすような切れ長の瞳。いつもなら突っぱねるところだが、心身ともに衰弱しきった今のルーシャに、強がる気力は残っていなかった。 「……風邪、引いたみたいなんだ」 「嘘だね」 レオノラは一歩近づき、ルーシャの首元や腕から覗く、消えかけた青アザを鋭く見つめた。 「君、何か隠してるだろ。そのアザ、どうしたの?」 「……っ」 痛いところを突かれ、ルーシャは視線を逸らした。しかし、レオノラの静かだが強い追及に耐えきれず、ついにぽつりぽつりと口を開いてしまった。 「……昔、色々あった人が、突然訪ねてきて……そのまま、家に居座ってるんだ」 ルーシャの掠れた声が、冷たいタイル張りの空間に響く。 「僕もどうかしてたんだ。寂しかったから……流されるままに、その……」 そこまで言った瞬間、レオノラの瞳に明らかな侮蔑の色が浮かんだ。 「節操なさすぎる!」 氷のように冷たい、軽蔑しきった一言。 その言葉は、傷ついたルーシャの胸を容赦なく深く抉った。同時に、抑え込んでいた悲しみと嫉妬が、ドロドロとした怒りに変わって一気に溢れ出した。 「なんだよ……!」 ルーシャは涙目でレオノラを睨みつけ、反発するように声を荒らげた。 「君だって……君が僕を避けて、急に冷たくするからじゃないか……! 僕ばっかり責めるけど、君こそ誰か好きな人でもできたの!?」 静まり返った洗面所に、ルーシャの悲痛な声が響き渡る。 おじ様と手を繋いでいたレオノラへの、当てつけのような問いかけ。 その瞬間——レオノラの表情が、ハッと凍りついた。いつも冷静な彼の目が微かに泳ぎ、きつく結ばれた唇からは、肯定も否定も、何の言葉も出てこない。 (……やっぱり、そうなんだ。レオノラはおじ様と……) 痛いほどの沈黙が、二人の間に重く横たわった。 ・ ・ ・ ・ レオノラは答えることができなかったのだ。 やがて、レオノラは自身の激しい動揺を隠すように、ふいっと顔を背けた。 「……それはともかく。まずはっきりさせなさい」 「はっきりって……何を?」 「分からないの?」 レオノラは冷徹な優等生の仮面を被り直し、冷たい目でルーシャの平らな腹部を見下ろした。 「薬局に行けば売ってるから。自分で買って、検査しなさい」 その宣告に、ルーシャの心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。 『検査』 その言葉が意味するたった一つの可能性が、暗く冷たい恐怖となってルーシャの全身を駆け巡った。 つづく — 生活費が空っぽになっていることに気づき、酒に酔ったジミーに恐る恐る尋ねるルーシャ。 「ねえ、ジミー……ここに入ってたお金、知らない……?」 次回 #92: 暴力と雪夜の逃亡: レオノラの保護と、嫉妬に狂う言葉攻めSEX 「あそこのカジノ、本当にイカサマばかりやってやがってよぉ……!」 お楽しみに!

ともだちにシェアしよう!