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13_蜃気楼の陰、暗雲の兆し
とある都市のオフィスビル。その一室に、ひとりの優男が足を踏み入れた。
小奇麗に整った受付を通され、革張りのソファがある応接室に入ると、スーツで強面の男が出迎える。
「ああ、暁明 さん。どうかされましたか」
「……私がここに来る理由なんてわかっているでしょう」
シァミンと呼ばれる人間の顔色は明らかに不調そのもので。彼は品質の良さそうなハンカチで口元を覆いながら目を伏せた。
「もちろん、苑 さんのことですね。我々も引き続き、探りを入れているところです」
「そんな悠長なことを言っている場合ではないかもしれません」
「……と言いますと?」
「やはり、彼は随分と酷い扱いを受けていました。少し前に、見かけたんです。貴方たちが教えてくれた通り、天義会の龍頭が外出するというので様子を見に行ったら、ユエンが連れ出されていて」
シァミンの脳裏に蘇るのは、公園という外で乱暴に犯されるユエンの姿だ。
彼を買ったという龍頭は、通りかかったシァミンを煽るように凶悪な笑いを浮かべて、ユエンの尊厳を守ることなく――なんなら見せつけるように狼藉を働き続けていた。木の幹に必死に縋りつくユエンの痛々しい後ろ姿が頭を離れない。
「……連れ出されていた? 厳重に囲われていた娼夫が?」
「ええ。それで、公園で乱暴をされていたんです。本当に、痛ましくて……」
「…………」
口を覆って吐き気を抑えるシァミンに対して、スーツの男は何かを考えるように沈黙した。
その様子は明らかに、シァミンが訴える『痛ましい乱暴』とは別の思考を巡らせているようではあったが、不調を訴える優男はそのことに気付かない。頭の中は、かつて自分が身請けすら考えた優しい娼夫の心配でいっぱいになっていたからだ。
「それはさぞ心配でしょう」
「ええ。ユエンが幸せならよかったのに……やはり、私の心配は杞憂ではなかった」
「心中お察しいたします。我々も風俗界隈の仲介で事業をさせてもらってる身。そのような人権を侵害する扱いは看過できません。やはり、ユエンさんは早く天義会から救って差し上げなくてはいけませんね」
「心強いです。久盛楼 さんの情報や力添えがなければ、ユエンの救済はできませんから」
シァミンは変わらず口にハンカチを当てながら、携帯を操作する。
スーツの男の携帯端末が何かを受信して短く通知音を立てた。
「ブレてしまっていますが、今日見かけた時……去り際になんとか撮ったものを送りました」
「確かに、これは龍頭のようですね。ユエンさんはわかりませんが……」
「いえ、ユエンで間違いないです。声が……そうだったので」
娼館で優しく抱いた時、自分の下で恥じらいつつも気持ちよさそうに喘いだフェイの声と同じもの。幸せな時の記憶と、乱暴されていたあの時の落差がシァミンをなお辛い気持ちにさせた。
「わかりました。さらに調査させましょう。ユエンさんを連れ歩くようになったのなら、救出する機会が増えることになる。なにより……龍頭が外出まで誰かを連れ添わせるなんて、界隈では大事だ」
「よろしくお願いします。ユエンはどんな無茶にも応える健気な子ですから、気に入られてしまったのでしょう」
そう言葉にすると、娼館時代の痛ましい姿もシァミンの記憶から引きずり出される。
ユエンは乱暴な客に当てられていつも傷だらけで、どの娼婦も嫌がる相手だとしても『これが俺の仕事だから』とシァミンの制止を振り切って奉仕しにいっていた。
シァミンができたことといえば、その客よりも高い金を積んでユエンを引き留めることだけだ。しかし、シァミンがどれだけ高給取りでも、娼館に毎日通えるわけではない。別の日にはきっとその客の元へ行っていたことを思うと、ずっと残っていた後悔が口から零れた。
「私が早く、ユエンを身請けしていたら……」
それはユエンが天義会に献上された時から、この男にかかっていた呪いだった。
これまでに何度も零れた後悔が、今日もまた世界に吐き出される。
スーツの男は、顔を覆うシァミンの肩を優しく叩いた。
「その後悔を、晴らしましょう。私たちが力を貸します」
「……はい」
「お茶を出させますので、それらを飲んで体調が落ち着いてからお戻りください。ご共有、ありがとうございます。また何かあったらいつでも訪ねてきてください」
「……ありがとうございます」
男に促され、ソファに腰を下ろしたシァミン。女性の受付によって、彼の前にはお茶とお茶菓子を置かれるが、自分が見た光景に未だ苛まれている彼は頭を抱えたまま動かない。帰宅するには、もう少しかかるだろう。
受付の女性がシァミンをなだめているのを見て、スーツの男は応接室から出た。
そうしてしばらく歩いてから、おもむろに携帯端末を耳に当てる。
「――堂主。情報が入りました。龍頭はあの娼夫を余程重用しているようです」
「――――」
「ええ。突く穴としては充分かと。こちらももっと探りを入れてみます……それでは」
男は電話を切る。その液晶にはある文字が表示されていた。
――永盛堂本部、と。
*
(……ずいぶん増えたな)
天義会本部。夕陽が差し込む東棟の一室で、俺はひとりクローゼットの中を眺める。
男娼として着ていた露出度の高い衣装とは別に、露出度の低い所謂『普通の服』が随分と数を増やしていた。
生まれてからこの方、娼夫としてしか生きていなかったためか。露出度の高い服を常に着ていたからか。普通の人間――主に客が来ているような服を自分が所有していることに、不思議な心地すらする。
(まぁ、やっていることは今までと変わらないんだが)
ヤーシュの取引に連れていかれてから、外に連れ出される回数は増えていた。
その度に新しい服を着せ替え人形のように着せられて、龍頭の男娼として様々な組織の取引や、外の施設などに連れていかれるようになった。その度に新鮮で、世界が広がるようだった。
とはいえ、ビルの陰や公園の片隅、車の中はもちろん、場合によっては取引先の前でも“仕事”を要求されることが増えたので、仕事場が増えた感覚でしかない。
(どこに行っても、俺はロンの男娼でしかないからな)
そう着地して、結局天義会に戻ればいつもの露出の高い衣装を身にまとってしまう。習慣というやつだろう。とはいえそれを憂いているわけでは断じていなかった。
天義会でロンの求めるままに身体を差し出すことは、やりがいのある仕事で、俺の存在意義だからだ。
むしろロンに求められれば求められるほど、役に立ったのだという時間が心を満たしていた。……今まで以上に体力的な側面では過酷になったとも言えるが。
ふと、ヤーシュのところに行った時に着せられた服が目に入った。
それと同時に、ある言葉が頭をよぎる。
『今はなんて言ったか―…あー、なるほど。“ロン”ね』
あの場では聞くのを憚られて口を閉じていたが、ずっと引っ掛かっていた。
(ロンという名前は……偽名なんだろうな)
今の俺にとってロンは『仕事相手』でマフィアの龍頭でしかない。彼の過去がどうであれそれは変わらないが――まったく気にならないかと言えば、嘘になる。
夜だけを共にする娼館の客に比べると、ロンと過ごしている時間は長い。そして今彼だけを相手にしているのも理由の一つだろうが……ロンには気になる点や、不思議な点が多い。
性格が不真面目で気まぐれかと思えば、ヤーシュのところでは聡明かつ冷静に交渉をやってのける。かといって突然機嫌が悪くなったり、ふと上機嫌になったりと思考も読めないし、娼夫の自分が簡単に気をやってしまうほど夜戯が上手く、そして誰にも負けないほど強い。
考えれば考えるほどわからなくて――知ろうとするのはそう、雲をつかむような話に思える。
(学のない俺が考えたところで、何もわかりはしないんだが)
ロンの相手をしない時は暇を持て余しているので、このくらいの思考をしたところで損はないだろう。
そんな風に他愛のないことを考えていると――バタバタと慌てた足音が近づいてくる。
「ユエンさん! 来てください!」
「慌ててどうした」
扉を開けるや否や、必死な表情でイーチェンが俺に縋りついてきた。
「ロンさんがユエンさんを連れて来いって。ただ……あんまりいい機嫌じゃなさそうっすよ」
「……つまり、仕事だな」
少し困ったように眉尻を下げるイーチェンを横目に、俺は手早く準備をする。
やはり露出の高いいつもの衣装を着ていた方が、こういう時にすぐ対応できるものだ。
俺はいつもの仕事をこなすべく、イーチェンに連れられて部屋を出た。
その先に予想以上の暗雲が立ち込めていることを知らないまま――。
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