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21_切望の果て、択するのは

「――ユエン?」  ゆっくりと開いた扉の隙間から、見覚えのある優男が顔を覗かせた。  耳にかかるくらいの茶髪を下ろしており、真ん中で分けられた前髪の下では緊張と喜びの入り混じった表情を浮かべている。娼館で何度も見た顔――シァミンという元客だ。  見知った顔であったことに戸惑い、胸の前に構えていたフルーツナイフを握る手がわずかに緩む。 「シァミン、何故ここに……」 「ああ、ユエン! やっと会えた……!」  しかし、室内に入って遠慮なく近づいてこようとする姿を見て、俺は改めてナイフを構え直した。  その仕草を見たシァミンは、困惑しながら2メートルほど先で立ち止まる。 「ユエン、そんな物騒なものは下ろして……」 「ここがどこだかわかっているのか? マフィアの本部だぞ」 「もちろん、分かっているよ」  見たところ、シァミンは丸腰のように見えた。警戒する俺に対して、彼は軽く両手を上げて何もないことをアピールする。  昔馴染みとはいえ、懐に何を潜ませているか分からない。警戒を緩めるわけにはいかなかった。 「久しぶりだね。半年……いや、それ以上ぶりかな。君が天義会に献上されて以来だ」 「もう、そんなに経つのか」  ロンに抱かれるだけの日々に、すっかり日付感覚が鈍ってしまっている。そんな外との時間の流れの差を感じながらも、目の前にいる男はあの時のままだ。 「君がどこかの組織に買い上げられたのは知っていたけど……まさかマフィアに軟禁されているなんて思ってもみなかったから、気づくのが遅れてしまって。ずっと、助けられなくてすまない」 「俺を……助ける?」 「ああ。毎日ボスに乱暴されているんだろう? この間も夜の公園で……酷い扱いだった」 「あの場を、見ていたのか」  シァミンが言っているのは、先日ヤーシュのところに訪れた後……公園の出来事だろう。  深夜で誰もいなかったと思ったが、まさかシァミンが見ていたとは思いもよらなかった。 「でもね、もう大丈夫だよ。元娼館の人達が、手引きをしてくれたんだ。君のことを心配していた」 「あの連中が、俺の心配を……?」 「ああ。久盛楼の総力をかけて、いろいろなコネを使ってくれたんだ。おかげでここに入り込むことができた」  久盛楼とは、永盛堂の取り仕切る娼館に娼婦や男娼を斡旋したり、客に店を紹介するための仲介業者だ。  ただの仲介業者のテイを成しているが、その実、違法な人員売買や契約でキャストと客を囲い込む、限りなく黒に近い連中。そんな奴らが、俺の心配をしているなんて到底思えなかった。 (シァミンは金のある一般人……あいつらの上客だ。そうそう黒い部分は見せないだろう。それに、永盛堂は――天義会本部に不満を持ち、反発していたはず)  であれば、答えは明白だ。シァミンは利用されたのだろう。  どこにも息がかかっておらず、後ろめたいことは何一つない――少し稼ぎがいいだけの一般人。  天義会の周りをうろつかせるには、丁度いい人材だったに違いない。 「ユエン。ほら、もう怯えなくていい。君に凶器なんて似合わないよ」  僕は何も持っていないから、と続けて、シァミンは着ていたジャケットを一枚脱いでその場に落とす。  その下のカラーシャツにはポケットもなく、銃器やナイフといったものは本当に持っていないようだった。  そのまま俺の元へ歩み寄り、ナイフを握る俺の手に手を添えてゆっくりと下ろさせる。俺は身構えこそしなかったが、ナイフを握る力は抜かないままにしていた。  刃が下に向いたことで、シァミンは正面から俺をやんわりと抱きしめる。 「娼館以上に辛かっただろう。助けに来たんだ、僕が君を救うよ」 「……意味が、分からない」 「ずっと後悔していたんだ。娼館に通っていた時から、ずっと君が好きで……身請けするつもりだったけど、君の値段は随分と高くて、すぐには手が届かなかった。そうしているうちに、マフィアに買われて――後悔してたんだ。ずっと」  シァミンは俺を抱きしめながら、その肩に顔をうずめる。  その手付きは娼館の客として来ていた時から変わらない。ガラス細工に触れるような。壊れそうな繊細なものに触れる時のそれだ。  そんな風に扱われるような存在じゃないのに、シァミンは出会った時からずっとそうだった。 「久盛楼を通して、娼館とは僕が話をつける。今度こそ君を身請けして、一緒の家で暮らそう。このマフィアの領地を出てしまえば、表立って手を出すことだってできなくなるはずだ」 「…………」 「辛い思いはもうしなくていいんだ。家にペットを飼うから、僕が仕事をしている間はその子と穏やかに過ごしてほしい。帰ってきたら、一緒にご飯を食べて……愛し合おう。大事にするし、幸せにする。僕にはやっぱり君しかいないんだよ、ユエン」 「シァミン……」  優しい声でシァミンが囁く。幸せな未来を描いているのか、声はどこか満ち足りた様子だ。  俺は心の中で、小さな息をついた。 「……相変わらずだな。お前は」  娼館に通っていた時と変わらない。この男は、ずっとこうだった。  優しくて、遠慮がちで、申し訳なさそうにしながらも自分のことは多く語るというのに――こちらのことをまったく見ようとしないのだ。  客と娼夫としてなら、それでいいだろう。金を払った分だけ話は聞くし、払った分だけ身体を差し出す。  しかし、他人と触れ合うのが苦手なシァミンにとって――そうやって割り切るのは難しかったのかもしれない。  取引先の付き合いで連れていかれた娼館で、俺と出会い、たくさん話をした。手を重ね、体温を重ね合わせたことが衝撃的だったに違いない。  それからは俺を気に入って、頻繁に通い詰めていた。手をつなぎながら何度も話をした。そのうち、話だけでなく身体を重ねることもした。  そうしてこの男は、金を通した関係の本質を理解しないまま――俺にのめり込み、入れ込みすぎた果てに、こんなところまで来てしまった。 「シァミン。帰れ」 「……え?」 「ここはお前が関わっていい場所じゃない。今すぐ、帰るんだ。俺は何も見なかったことにする」 「ユエン、どうして……」  シァミンがどれだけ潔白な一般人だとしても、マフィアの本部に入り込んで許される訳がない。  裏社会に対抗できる後ろ盾もない、普通の人より稼ぎのいいだけの一般人だ。永盛堂に利用されたとしても、言い訳はできないだろう。  なぜなら彼は、この地域で最も大きいマフィアのボスの物を盗み出そうとしているのだから。 「帰らない。チャンスは今しかないんだよ。ここにいたら、君は不幸になる」 「それは……違う。俺は不幸なんかじゃない」  ロンの相手が少しも辛くないかと言われれば、嘘になる。  あいつはこっちのことも気にせず自分の好きなように腰を振るし、俺が失神するまで同じところを責め立てたりする。誰の前でも構わず俺を喘がせようとする。機嫌が悪ければ何をするか分からない。  絶倫なこともあって、気絶して起きたらまたすぐに抱かれることもまれじゃない。夜から始まって朝になったことだってあった。それでも――。 『フェイ。お前、やっぱ最高だ――』  俺が来てから、ロンは娼婦を呼ばなくなったと皆が言った。  娼婦を呼ぶ代わりに東棟に通い詰めて、俺ばかり抱くのだと言った。明らかに気に入られているのだと言った。  どれだけ不機嫌でもロンは俺を呼ぶ。  今まで多くの部下が命で贖った感情を俺にぶつけて、発散して、嬉しそうに笑う。誰かが命と引き換えにしか受け止められなかった感情を、俺だけが受け止められている。役に立って、最高だと褒められる。  そうして、こちらが失神するほど求められて、愛されるのが――嬉しくてたまらない。 (こんなのは、おかしい。おかしいのはわかっている。けど――)  俺は両手で持っていたナイフを片手に持ち替え、空いた方の手でシァミンの胸を押した。  シァミンが俺に求める幸せは、俺じゃなくてもいい。彼の話を聞いて頷いて、優しく抱かれて、彼の肉欲が満たせれば誰でもいい。求められているのは、体温のある人形だ。  俺が胸を押したことで包み込んでいた腕が離れ、シァミンは不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。 「俺は、ここにいて幸せなんだ。望んで、ロンの男娼をしてる」 「ユ、ユエン……?」  シァミンの瞳が疑念を滲ませて揺れる。 「俺はここに残る」 「……わ、分かった! 洗脳されてしまっているんだね、可哀そうに」 「洗脳じゃない。これは俺の意思だ」 「いいや、洗脳だ。たくさんの暴力で、そう思い込むしかなくなっているんだ」  どれだけ否定しても、シァミンは俺の言葉を呑み込もうとしない。  元より話を聞かなかった性質と、久盛楼から吹き込まれたのであろう嘘が、悪い相乗効果を生んでしまっているのかもしれない。彼は俺の肩に両手を置いて、こちらを見た。  天義会では見ることのない、純粋無垢で、澄み切った――美しい眼だ。 「この場所を出て、たくさん僕が愛したら……きっと気づくよ。今の気持ちが幻だって。だから、僕が連れ出すんだ」  シァミンはそう言って、俺がナイフを持っている方の手首を強引に掴んだ。  今までに感じたことのない粗暴な動作に驚いて、ナイフを取り落としてしまう。 「っ、シァミン! 俺は、行かない……!」 「駄目だ、僕が残らせない。君を、今度こそ幸せにする……!」  手首を掴まれ、引きずるように入口へと向かい始めるシァミン。  彼は体格の良い方では決してないが、ロンに寵愛されているだけの細い俺に比べたら十分に力はある。  ずるずると廊下に引っ張られてしまい、焦燥感が募った。 (このままシァミンに連れていかれたら駄目だ)  シァミンをけしかけたのは、今ロン達が抗争している永盛堂だ。  このまま連れていかれれば、俺は保護の名目でシァミンからも引き離され、テイのいい人質として使われるだろう。それでロンが動揺するかはわからないが――面倒な状況になることは確実だ。  懸命に考える。今の状況を打破する方法。俺が、天義会の――ロンの物としての正しい選択。 「っ、!」  俺はなけなしの力を込め、たった1回だけ、シァミンの腕を振り払った。  そうして、室内のある場所に駆け寄った。鏡台――そこについている一つの引き出しに飛びつく。 「分かってくれ! 君のためなんだ!」  後ろから羽交い締めにするつもりなのか、手を伸ばしてきたシァミンに――俺は、ある物を突き付けた。 「うっ……ぁ……!」  バチバチと火花が音を立て、それに触れたシァミンの身体がビクンと跳ねる。  彼は受け身を取れないまま後ろに倒れ、その身を固く強張らせた。 「ぁ、ユ……エン……ど、……して」  俺の突きつけたもの――スタンガンの先端では、未だバチバチと電気が音を立てている。  口が半開きのシァミンは、目だけでなんとか俺を見ようとしていた。 「すまない、シァミン。お前の気持ちは……ありがたく思う」  押しつけがましくても、娼夫のためにここまで危険を冒したシァミンの覚悟は本物だったんだろう。  そう感じたからこそ、応えられないことは本当に『すまない』と思う。  それでも、それを上回るだけの理由が俺にはあった。 「だが、一緒には行かない。俺は天義会の――ロンだけの、モノだから」  俺の言葉が聞こえたのか、聞こえる前に気絶したのか。シァミンから返事が返ってくることはなかった。  しばらくすると、いくつもの銃声と共に外が騒がしくなる。  ロン達の凱旋のようには到底思えず、俺はまだ気を張り詰めたまま手元のスタンガンを握りしめた。

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