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<2>酒家「彷膳茶社」①

 外套の不要な五月とはいえ、日が暮れてしまうと頬に感じる風が少し冷たい。  湖の上を渡って吹きつけてくる夜風に軍帽の下の横髪を靡かせつつ、実充は南泉についてこれ以上考えるのは止そう、と今日幾度目かの決意を新たにしていた。あの辞令を目にしてから一日、何度そう心に決めてもちらちらとあの男の影が脳裏を過ぎり、どこか職務が手につかない感じがあった。  実充を含む数名の在北京・陸軍駐在武官らの姿は、その夜、芳沢駐華公使(※1)の身辺警護のため、北京駐屯部隊とともに酒家(レストラン)「彷膳茶社(※2)」前にあった。  酒家「彷膳茶社」は、清朝滅亡で失職した宮廷膳吏(料理人)が、皇帝の禁園であった北海公園内北岸に数年前に開店させたらしい洒落た高級料理屋である。公園自体が、革命以後、数百年の封印を解かれるように市民に開放されたばかりだ。  今宵は、湖上に浮かぶ瓊華島の遠景や対岸の灯火を眺めつつ、芳沢公使が中国側の要人と面会する予定だった。  頬を撫でる湿った夜風は、警備に当たる実充の緊張を僅かだが和らげてくれる。  眼下に広がる黒い漣は、もはや海としか云い表すことのできない、広大な湖である。  この人工湖のみならず、公園内の瀟洒な歴史的建造物は全て数百年の間、歴代皇帝のためだけに造成されてきたという。この支那最古の御苑は元から明・清に至るまで、数々の王朝の栄枯盛衰を目にしてきたのだ。 「柚木、聞いたか」  いつのまにか実充の脇に立ち、こっそりと肘をつついてきたのは喜多淳博(きた・あつひろ)陸軍大尉だった。同じ支那課から出向の駐在武官で実充より2期上だ。三十歳だがこめかみの白髪のせいでもう少し老けてみえる。落ち着いた風貌の男だ。 「何をでありますか」  階級は同じでも喜多のほうが歳上の先任士官なので、実充は敬語を使う。 「郷崎(さとざき)少佐から今聞いてきたが、南泉のやつ、既に着任しているらしいぞ」  郷崎少佐は公使館付二等武官、つまり南泉の下であり、実充ら駐在武官の元締め的立場である。 「…もう北京にいるのでありますか。姿がありませんが。一等武官ならば芳沢公使のお供で姿を見せるべきだと思いますが」  南泉がもう北京に居ると聞き、実充は心臓を跳ねさせたが動揺は顔に出さず、周囲に目を奔らせた。 ―――――――――――― (1)芳沢謙吉…在1923-29中国公使。のち外務大臣 (2)彷膳茶社(彷膳飯荘)…瓊華島に移転し現存。 宮廷料理の老舗 ――――――――――――  彼ら一般の駐在武官(支那研究員)とちがい、南泉、郷崎ら公使館付き陸軍武官は「外交官」としての役割も帯びている。  もっとも、中国における最上位外交官であるのはむろん芳沢公使で、芳沢が「外務省」の派遣する役人であるのに対し、南泉ら陸軍武官はあくまで帝国陸軍の所属。おもに公使館の警備用に組織された「公使館陸軍部」へ出向しているという形である。  実充ら「支那研究員」と名のついた駐在武官は、さらにその下に位置する、陸軍部の情報収集要員…まあ、情報戦のための手足のようなものだ。 「公使のお供以外にさぞかし重要な任務でもあるのだろうよ」  喜多も実充と同じく「無天」の将校だ。天保銭組の南泉には含む所がおおいにあるのだろう、僅かに貌を顰めてみせた。  公使館付き陸軍武官という役職は、南泉のようなエリート組の重要な踏み石となっている一方で、昨今、彼らが時に公使を通さず本国と直接やりとりすることで、公使の権威が軽んじられ接受国に対しても「二重外交」になる危険性がたびたび表面化していた。軍部がいよいよ力を増し、外交に関して外務省との間に齟齬が起こっているのだ。  軍部と外務省の微妙な関係は、「公使に一等武官が同行して来ない」という今宵の些細な異変にも顕著に見て取れた。 「張との面会以上に、優先されねばならない任務ですか。着任早々そんなものが…」  ありますか、と云い掛けた実充を、当の喜多が抑えた。彼は顎で示した。 「しっ。当の“張大元帥”のお出ましだ…」  中国側の要人が、車で酒家の前に乗りつけ、数名の中国側の護衛とともに車から降りた所だった。  酒家の周りにぴりぴりした空気が漂う。  実充は警備に気を配る振りをしながら、車から降りてきた、口髭を蓄えた中華軍服の中年男を鋭く見つめた。  それが今宵の中国側の要人、喜多の皮肉によるところの“張大元帥”、中華民国(北京政府)国家首席…、張作霖(ちょうさくりん)という男であった。 ―――――――― (※ 張作霖(1875-1928)…満州の馬賊出身。清朝末期に部隊司令官として頭角を現す。清朝滅亡後は軍閥<奉天軍>の指導者として満州を中心に活動。田中義一首相の知己で、日本政府から支持を受けていた。  1928年の状況としては「北伐」を進める南の国民党軍に押され敗色濃厚だが、まだ北京に居座っている。)
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