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第八章・魔界騒乱~月華の麗人~①

 この地を踏むことは、もう二度とないと思っていました。  目の前に広がる魔界の森。  日没を迎えて森は夜の闇に覆われているけれど、見覚えのある景色です。  この森は、まだ魔界に住んでいた頃にイスラがクウヤとエンキを連れてよく遊びに来ていた森でした。  追憶に胸が締め付けられるけれど、今は腕の中のゼロスを安心させるように笑いかける。 「ゼロス、もう少ししたら皆が来ますから、それまでここにいましょうね」 「あぶっ」  ゼロスを抱っこし、月明かりの差し込む日溜まりの場所で皆を待つことにする。  今、ジェノキスとアベルはイスラの案内でフェリクトールに会いに行っています。  現在魔界を守る結界は勇者イスラですら突破が困難なほど強化されていました。冥界の混沌の影響を最小限にする為、ハウストが結界を強化したのです。  ジェノキスとアベルとイスラのお陰で強引に結界を抉じ開けましたが、私達が魔界に入ったことは知られてしまったことでしょう。  その為、不法侵入という扱いを受ける前に魔界の宰相フェリクトールにジェノキスとアベルが目通りし、正式な許可を得に行きました。私達の目的は助力を嘆願すること。ここで魔界に不快感を持たれてしまうのは得策ではないからです。イスラは私と一緒にいたがったけれど、魔界の地理に疎い二人を案内する為に一緒に行ってもらいました。  そして私は、許可が下りてフェリクトールの何らかの指示があるまで、ゼロスとともに森で身を隠しています。  不自由ですが仕方ありません。表立っては、宰相の愛人として館に囲われていることになっているので、魔界を出ていたことを知られる訳にはいきませんから。 「あー、あー」  腕の中のゼロスがばたばたと腕を伸ばす。  見ると白い花が咲いていました。  月明かりに照らされて白い花弁を輝かせている。  この大地には花が咲いている。それはハウストが魔界を守っているからですね。  あの泉で見た草花が朽ちる現象は、人間界の各地でも起きていました。人間界を守る勇者はまだ幼い子どもで、この魔界のように防ぎきることができないのです。 「つぶしてはいけませんよ?」 「あうー」  私は地面に膝をつき、ゼロスに花を見せてあげます。  興味津々のゼロスはちょんちょんと花に触れて、とても楽しそう。 「綺麗ですね」 「あぶぶ」  無邪気なゼロスに目を細めていると、――――ガサガサッ。生い茂る草木を乱暴に掻き分ける音が聞こえました。  その音に、はっと緊張が走る。  魔界にもギルフリートの暗殺者は侵入しているのです。 「ゼロス、隠れましょうっ」  私はゼロスを抱っこし、急いで茂みの影に隠れようとしました。  でも、それより先に茂みを掻き分けて人影が飛び出してくる。 「っ、ハウスト……」  一瞬、時間が止まったかと思いました。  だって、そこにいたのはハウストだったのです。  ハウストは全力で走った後のように息を切らしながらも、私を見て硬直する。  ありありと驚愕が分かるそれ。私も呆然と彼を凝視してしまう。  二人、馬鹿みたいに見つめ合っていましたが。 「きゃあっ、あーあー!」  ふと、抱っこしているゼロスが嬉しそうな声をあげました。  ゼロスが無邪気にハウストに向かって小さな手を伸ばす。抱っこしろとせがむ姿は、以前と変わらないもの。  はっとしてハウストの前に跪き、頭を下げました。 「も、申し訳ありませんっ。ご無礼をお許しください……っ」  馬鹿みたいに声が震えている。  以前とは違うのです。元王妃とはいえ今の私は宰相の愛人で、彼からすればただの人間。彼は魔王で、本来なら近づくことも、直接言葉をかけることも許されない相手。  目の前の存在に混乱しながらも、頭を下げ続けました。  でも腕の中のゼロスは興奮したように手足をバタバタさせます。 「あぶ~っ、きゃあっ、あー!」 「ゼロス、だめです」 「あうーっ」  ゼロスが不満を訴えてくる。  久しぶりに会えたハウストに甘えたいのでしょう。ごめんなさい。あなたは何も知らないのに我慢ばかりさせてしまう。  私はハウストを見ないままゼロスを静かにさせようとあやしました。  叶うなら、このまま彼を見ないまま逃げてしまいたい。  しかし。 「……顔をあげろ」  久しぶりに聞いたハウストの声。  低く響いた声に胸が切なく締め付けられる。  嫌です。顔は見たくありません。声を聞いただけでこんなに苦しくなるのに。
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