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第16話

*  一方、その頃。  仲本は部屋で呆然としていた。風呂で思っていたこととさっき見たものをゆっくりと思い返す。心臓の音がどくどくと跳ねていた。仲本は宿の浴場にいって湯につかったものの、速瀬がいなければあまり楽しくなく、ゆっくりと自分の身を省みていた。  速瀬は覚えていないが、仲本は会社に入るもっと以前、中学生のころに実はイギリスで速瀬にあっている。もっと本当のことを言うと、幼少期にもあっており、そしてその2回とも速瀬は泣いていた。幼い頃の記憶は最近になって思い出しただけだ。仲本の恋愛感情の起因は十代の頃にであったときの速瀬の姿である。しかし、あの時、速瀬の精神状態はぼろぼろで、きっと慣れないアルコールで記憶がないと思っている。  仲本は今でもその光景を覚えていた。もう十年以上前になる。夕暮れのせまる町並みの中、もう翌日には日本へ帰国することが決まっていた。吉城の家がそういう……裏稼業もしているのだと知ったのはその時だ。秀人とはいつまでも友達だしな、そう思っただけだった。最後にもう一度町並みを見ておこうと、ふらっと一人で夕方のロンドンを歩いていた。そうしたら、その前日に軽くアーサーに紹介された銀髪の少年が歩いてきていたのだ。  確か名前が日本名だったと思う。紹介されたときも相手はよろしくとも言わず、仲本の差し出した手もとらずにいってしまったくらいだ。よくは思われていないだろう。仲本の印象はきれいな男の子もいるもんなんだなーというくらいであった。クォーターかハーフだということだけアーサーにきいていたように思う。相手の足取りはおぼつかず、ふらりと街角に寄りかかっているのが見えて、おい、と思わず駆け寄った。相手はうつろな目で少しアルコールの匂いがした。イギリスでははやくから酒が飲めるのか? 外国だしな、とふと仲本少年は思った。速瀬は、仲本の顔を見ても何も言わず、ただ、ぼそりと、死んだんだ、と言った。 『ずっと、そばにいるって』  そう言ったのに、と速瀬はぼろぼろっと大粒の涙をこぼしていた。その光景を仲本は今でも鮮明に覚えている。はじめて会ったに等しい仲本のことなどきっとわかっていない。きっと自分が何をいっているのかも速瀬はわかっていない。そして今も覚えていないだろう。 『大好きだったのに』  なんでだって言って、ぐらりと速瀬は倒れた。その体が同じ男とは思えないくらいに軽く細かったことも仲本は覚えている。近くに泊まっていたホテルに運んで、慌ててアーサーを呼んだ。  急性アルコール中毒かと思ったが、そうではなかったらしい。アーサーを待っている間に、何かうなされているようだった。ゆっくりと仲本がその体をみると、色々なところに包帯が巻かれている。アーサーからの話でナイフや銃を使っているということはきいていた。同い年なのはしっていたし、これがアーサーと秀人のいる世界なのか、とただなんとなく現実感が降ってきたような気分だった。  誰かの名前を呼んでいる、そう思って顔を近づけると、速瀬はまだうつろな目で仲本を見ていた。意識はあるようだとほっとしたら、顔を引き寄せられた。  キスをしたのは初めてではない。けれど、仲本の心臓はその瞬間ぎゅうっとなった。きっと目の前の少年は相手を間違えているんだと思った。誰か大切な人がなくなったんだろう、と思う。けれど、そのまま抱き寄せられた先で、涙が仲本の服をぬらしていた。途切れるような声で震えていた、その体がひどく小さく思えた。 『そばに……いて…』  ぼろぼろで震えている目の前の少年がひどく愛しくて。眠りについてしまったあともずっと抱きしめていた。アーサーたちが到着してホテルのベルを鳴らすまで、ずっと仲本は速瀬をそっと抱いていた。  彼が一連のことを覚えてないということもわかっている。相手はアルコールで飛んでいたし。そして間違えられた相手が誰だったのかも仲本は知っていた。その相手はもうこの世界にはいない。そして、おそらく速瀬はその人に憧れと……そして恋愛感情を抱いていたんだと理解している。本人はきっと思い出したくないだろうから、仲本はそこには触れなかった。紹介されたことがあるだけだと。  あのときからずっと、心の底で好きだったのだ。会社で出会ったのは偶然だが、近づくためならなんだってしようと思った。そして、秘書をこなす速瀬をみて、きっと変わっていない、そう思ったのだ。だから、いつかまた泣きたくなる日がきたら、自分が支えてやりたいと、いつしかそう思っていた。  好きだと言葉にしてしまうのは簡単で、何度だって思っている。できればそれをいつだって伝えたいけれど、速瀬が拒むのだから仕方がない。そう思ってゆっくり湯の中で若き日を思い出しては珍しく感傷にひたってしまっていた。  のぼせるな、と思って、ゆっくりと風呂をあがると一人でいるマーレにあった。マーレがひとりでいることなど珍しい。クリスティーノはどうしたのか、ときくと邪魔しちゃ悪いと思ってね、と少し含んだ苦笑いを相手は返してきた。女でも連れ込んだか、と仲本は少し下世話な想像をして、そのまま速瀬のいる部屋へ戻ろうとした。しかし、旅館の廊下がわかりにくく、間違えて庭のほうにでてしまう。綺麗な庭だった。見える月はきれいな円を描いており、あとで速瀬と月でも見ながら酒をのめればいいな、と思っていると、向かいの二階に速瀬の姿がちらりと見えた。ああ、あっちかと思い、そちらにのぼる階段をあがると。  そこでクリスティーノと速瀬が外を見ながら話している。内容までは聞こえないが、仲本はなんだか近づけず、そのまま足音がしないように距離を置いた。別に疑っていたわけではないし、今の仲本の立場でいろいろとどうこう言えるような間柄でもない。けれど、さきほどのマーレの発言と昼のクリスティーノの秘密。それで少し気にかかるところがモヤモヤと胸の中に広がっていく。  何を話しているんだろうと思うけれど、まさか入り込めるような雰囲気でもない。部屋の方向とは逆だし、風呂に入りにいこうとしたのか?と分析するがあまり冷静には判断できなかった。あ、と思った時にはクリスティーノが速瀬にもたれかかっていて、そのまま何かを話している。速瀬もクリスティーノの頭に手をまわしているし、仲本は目の前の光景がいったいなんなのか信じられなかった。  自分が触るときはあんなに嫌がるのに、と思わず比較してしまうのは悲しい。そりゃ、速瀬とクリスティーノとの方が付き合いが何倍にも長いのをしっているし、親しいこともわかっている。ふと自分の今の状況にきづいてこれでは出歯亀ではないかと部屋に戻ろうと思った。その時、クリスティーノが速瀬をぎゅっと抱きしめたのが見えてしまったのだ。そして速瀬もそれを拒まなかった。仲本はゆっくりとそのまま後ずさりしてもう見ないことにきめた。踵をかえし、部屋へ戻る。  そして、部屋に入って座り込むと、そのままぼんやりと座卓につっぷして動けなくなってしまったのだ。目の前でみたことが全てだとは思わない。自分が過去のことだけで、まだあの初恋に焦がれていることもわかっている。  速瀬は仲本の感情を受け入れはしなかったし、たまに「なんでだ」と理由をきいてくることもある。感情の理由を求めているのではない。きっと速瀬が覚えていない何かを探っているようだ。けれど、仲本はこたえなかった。速瀬にとっては辛い過去だろうし、自分が「間違われて」キスされたというのも言う気にはなれなかったからだ。そんなことを分析してなんとか冷静さを取り戻そうとも思うが……思ったよりもダメージは深い。 (やばい、すげー嫉妬してる)  昼間は仲良くてうらやましいなーくらいに思っていたが、いざああいう場面を見せられると、疑っていただけに辛い。マーレも遠慮するということはもともと……「そういう」ことなのだろうか? 仲本は自分に自分の立場を考えろ! と言い聞かせるが、それでも…それでもやはり奥底にわき上がってきた感情はとまらなかった。  速瀬に決めた人がいるのではないかと疑ったことも何度かある。女性の影は見えないし、イギリスにいるのかもと思ったが、婚約者などの話もきいていない。となると男か? と思ったが、ゲイではないようなことも言っていた。しかし、おそらく、だけれど、仲本の前で泣いたときの相手は……調べたら男だったし、あの口ぶりと間違われたキスからしても恋愛関係にあったのかもと疑ってもいるのだ。  速瀬は潔癖ではないが、人との接触を極端に嫌う節がある。だから、仲本も手ひどくはたかれようが仕方がないといつも自分を慰めていた。なのに、クリスティーノにはあんなに甘くて、何か自分の認識が全部間違っていたのかとさえ思えてきた。そして、やはり特別な人には違うのか、などとも。  座卓にごろりと頭を置いたまま、畳の目を眺めていた。今日だって、何度目になるかわからない告白をしようと思っていたのだ。またきっとかわされるだけだろうけれど。けれど、これではそんな気持ちすら削がれてしまった。直接きくべきかそこをはっきりさせるべきか。  そもそも自分はどうしたいのだろうか。  それすらもよくわからなくなってきて、眉間に皺を寄せたまま、ただ溜息をついた。 「あ? 何やってんだお前」  速瀬が部屋についた時に、仲本はまさに自分の中に入り込んでおり、座卓につっぷして、それはもう死人同然だった。まさかの湯煙殺人事件だなと、速瀬は場にそぐわないことを思っていた。仲本がこんなに負のオーラを前面にだしているのはたいへん珍しい。きっとこの旅行の間本当にほったらかしにしていたのに凹んでいるのだろう。自惚れではなく事実だ。そのくらいは速瀬もわかっていた。 「おい、俺はもうねるぞ」 「あ……」  ようやく口をまともに動かした仲本からは「あー」とかそういう擬音にも擬声にもみたない音しかつむがれていない。いらついた速瀬は部屋の間の柱にもたれかかり、寝るからこっちはいってくんなよ、とだけ釘をさして布団に向かった。寝床となっているふすまの向こうにはきっちり二組の布団が敷いてあって、ちっと舌打ちをしていると、ようやく仲本から「あのさ」という普通の言葉が発せられた。 「なんだよ」 「いや、あの、どこ行ってたのかなって」 「……風呂だよ」  お前もいってたんだろーが、と適当に速瀬は答えると、そのまま布団に入ろうとした。途端、背中側から引き寄せられる。何、と振り返ったところにキスされて、速瀬は怒りよりも先に驚いた。確かに仲本は速瀬が好きだ。それは何度も本人に告げられているし、ようやく速瀬の中で原因をさぐることもあきらめられ、忘れた頃の確認みたいに告白もされていた。けれど、最初はいきなり押し倒されたりしたものの、ここ最近は言葉でしかなかったし、まさか、行動にでるだなんて予想していなかったのだ。まあ、平たく言えば「油断していた」ってやつである。 「おまっ……! ちょっ………!」  何しやがる! という言葉もうまく唇で塞がれて、そのままがたりと布団の上に押し付けられた。大の男二人分の体重が畳と布団にかかり、そのまま仲本は速瀬の体を抱きしめる。 「何だよ! さっさとどけ! 今なら、」 「……クリスティーノさんと」  許してやると言う前に仲本が暗い中で速瀬を見つめてくる。いきなりでてきた名前に不覚にもびくついたが、さっきまでのことがこいつに知られるはずがないと睨んだ。 「あ?」 「クリスティーノさんと、何してた?」 「は? お前何を……」  ガンをくれてやろうと見据えた先に、暗さに慣れた速瀬の目がとらえたのはなぜか傷ついたような目をした仲本で、速瀬は何のやましさもないにも関わらず言葉をつまらせた。 「……何がクリスティーノだ? 風呂であってねえぞ」  本当はクリスティーノと部屋で飲んで、そのまま酔ったクリスティーノに連れられて部屋の露天でゆっくりしていたのだが、そんなことをわざわざ言う必要は無い。大体速瀬は悪酔いしたクリスティーノに縋りつかれるわ泣かれるわ散々で、まるで子供の世話のようにようやく寝かしつけてやっと部屋に戻って来れたのだ。  まったく本当にこの旅行は災難続きだ。まあ、クリスティーノの凹みは予想以上だったとはいえ、仲本が何でこんな行動にまででたのか速瀬には理解できない。勘弁してくれよ、と仲本の身体を押しのけようとしたが、相手は一向にひく気配がなかった。それどころかそのまま身体をより密着させてくる。ずれた浴衣の間に脚を入れられて、力で仲本に叶わないともう痛いくらいにしっている速瀬はようやく今の状況が本当に「まずい」と悟った。  冗談ではない。仲本とそんな関係を持つ気なんてさらさらないのだ。そりゃ、アーサーに以前に言われた「仲本は役に立つからお前でひきとめておけ」的な言葉が気になっていないと言えば嘘になるが、仲本の根拠のよく見えない好意に甘く対峙する気もなかったし、それに、こんなのはまったくもって趣味じゃない。  まるで戦闘時のように、相手に弱味を見せてたまるか、と速瀬はなんでもないようにするが、内心の大半はどうやってこの状況を脱するかに占められていた。どうやってこいつを自分の上からどかすか、それしか考えず、布団の方に顔を背けていたら、首筋を吸われた。何しやがる、とまた言おうとしたら唇を追われて、ゆっくり考えている暇などなく、手を出そうとする。しかし、その細い手首はぐっと仲本の大きな手のひらに掴まれてしまって、速瀬は自分の行動をもう1コマ前に戻したいと心の底から思った。 「い……ッ!」  仲本に吸われた鎖骨のあたり。なんだ?と思ったら、さっき酔ったクリスティーノにかみつかれたところだ。気づいた時にはもう遅くて、肩をおさえつけられる。  本当に冗談じゃない。入浴後にしばっていた髪はとれ、その毛先を見つめられても、まったく甘い雰囲気になどならないし、速瀬の頭の中はどうやってこの状況から解放されるかだけ、仲本の頭の中は目の前の速瀬のことだけ。どこまでいってもかみあいそうにない。  沈黙は数秒だったのだろうか。その間もなんとかこの馬鹿力をどうにかしたいという考えしかなかったので、仲本がぼそりと呟いた自分の名前にようやくその間をさとるくらいだった。  あ?と相変わらずガンをくれるのは、まだ自分の中で虚勢がはれるだけましだった。そろそろ本気で「犯されるなんていやだ!」と危機感が現実味を持ち始める。 「……なんで嘘つくんだよ?」 「あ?」 「俺が、速瀬のこと本気で好きってわかってんのに、なんで嘘つくんだよ! 言えばいいだろ!」 「ちょ、何……!」  言えばいいって何をだ!? と速瀬の混乱がおさまらないうちに仲本がぐっと速瀬の細い腰の上に完全に馬乗りになって身体をおさえこんできた。速瀬は批難の視線でおもいっきり仲本を睨むが、相手がなぜかものすごく傷ついた表情をしていて………思わず視線をそらす。それがいけなかったらしい。 「キスマークなんかつけられやがって、何してんだよ!」 「ああ!? 馬鹿な誤解してんじゃねえ!」  会社の旅行なんだぞ! フキンシンだ! と理不尽な言い方をされて、速瀬はそれにまたカッとした。そして、今仲本が一番傷つくだろう言葉を言った。本人にそんなつもりはなかったのだけれど。 「……っ! そもそも俺のことなんか、お前になんも関係ねえだろうが!!」  その言葉を突きつけられた仲本は、一瞬固まって力を緩めた。速瀬は相手が急に動きをぴたりと止めたのを見て、それが衝撃でその場から動けなくなった。 「じゃあ、どうしたら……」 「あ……? ああ?」  しばらくの静けさのあと、ゆっくりと仲本が口にした言葉。それに思わず威嚇するような発声をしたが、仲本にはそれはただの「速瀬の声」としか届かなかった。  俺を、  ずっと傍においてくれんの?  俺は速瀬のこと、好きなのに。  ぼそりぼそりと呟かれた言葉はぽろぽろと速瀬の上におちてきて。速瀬はそれがわかんねえんだよという言葉を出せずに居た。今まで他人に好意を寄せられたことは何度もある。でも、仲本からのは最初からなんだか異質で。ちゃんと向き合おうとはしなかった。仲本も深くまで話そうとはしなかったし。速瀬はもう今日の疲れで思考をあきらめた。抵抗のためにまだ往生際悪くつかんでいた仲本の手首を離し、胸前を開けたまま、はあと大きな溜息をついて顔をそらせた。 「……やりたきゃやればいい」 「え……」  速瀬はどこかでわかっていた。仲本がどれだけキレていたとしても「速瀬の嫌がること」を最終的に「できるはずがない」と。もういい加減にしてくれ、と何回目なのか数える気もない告白を中断させる。 「そのかわり、二度と口もきいてやんねえ。仕事もしねえ。それで全部終りにしてやる。傍になんかおいてやんねえよ。お前なんか大嫌いだ」  目線もあわさずにそう言うと、思った通りに相手から力が抜けた。速瀬は今度こそ機会を逃さずに身体を起こし………というか相手に思いっきり頭突きをかまして平手で殴った。どけ、と言うと、仲本は素直に引き下がって、頭を力なく下げるだけだ。 「ごめんなさい……」 「……部屋はいってくんな」 「速瀬、俺」 「しばらくお前と仕事もしたくねえ。別のやつと組む」  仲本の弁解などをきく気は速瀬にはまったくなかった。仲本は視線のあわない速瀬にあきらめて浴衣の前をあわせ、すみませんでしたと再度謝り、部屋をでていこうとした。速瀬の体が小刻みに震えている。  速瀬は……今更混乱をおこしていた。  仲本が速瀬に思いを告げるのは何回目かわからない。最初は敵だと誤解していたし、その流れからの軽い話かと速瀬は高を括っていたふしがある。今ようやく仲本の気持ちが、本気で独占欲だとかそういうものまで伴った物だとわかったのだ。いや、わかってはいた。今やっと「実感」ですとんと身体に入ってきたのだ。それを全否定するように速瀬は小さく叫んだ。 「お前も……あいつも、馬鹿ばっかだ!」 「速瀬……?」 「愛してるとか好きなのにとか、そんなもん、何の保証もねえし、いつ死ぬかわかんねえ世界にいるってのに、無責任なんだよ! 信じられるかよ、馬鹿じゃねえのか!」 「速瀬、そんな、」  仲本はそんなことないと言おうと近づこうとしたが、その場から動けなかった。速瀬の表情は仲本からは見えない。けれど、もしかしたら、今彼は泣いているのかもしれない、と思えたからだ。近づくなという、その言葉を発せずとも速瀬の体全身が拒んでいた。仲本だけでなく、全部を。 「どうせ、いつかは……」  俺のそばから居なくなるのに。  静かな部屋でふいに出た言葉は意味のないただの羅列ではなく、仲本の頭の中の記憶にそこでリンクした。速瀬が人に不信感をぬぐいきれずにいる感がある、その原因は曖昧でぼやけていて……わからない。けれど、仲本の中では鮮明に思い出される夕暮れの中の記憶に繋がった気がした。 「速瀬……」 「……寝る。はいってくんな。出て行け」 『速瀬は、あのとき酔ってて、全然覚えてないかもしれないけど』 『あの時、大切な人が死んだっていってた』 『もしも、それが速瀬にまだ残ってんなら』 『俺はずっと傍にいるから』  言ってしまおうかと思ったけれど、仲本は言葉を飲んだ。色々な文字が自分の頭の中で形成されていくけれど、それは理屈の通った文列をなさないままに壊れていく。  こんなことするつもりじゃなかったのに、こんな悲しくさせたかったわけじゃないのに、と思っても遅かった。おそらく過去の記憶に入ってしまった速瀬は、布団の中に潜り込んでしまう。のぞく銀髪がぎゅっとまたその位置を布団のより奥へ下げた。襖の合間から漏れる光の幅を細くしながら、仲本は一言だけもう一度言った。 「………好きなんだよ」  速瀬が信じないっていっても、ずっと言い続けるから。  速瀬はそれに何もこたえなかった。仲本は閉めた襖の縁をおさえながら、大きな溜息をついてずるずるとその場に座り込んでしまった。  完全にしくじった、と思う。これじゃあ全部逆戻りだ、と自分の立場を考え直して鬱にはいりそうで、後ろ頭を右手でガシガシと掻いた。この関係は簡単には修復できそうにない。仲本はできることならこの一日をもう一度最初からやりなおしたかった。自分の中の感情にも整理がついていかない。  知らない間に恋に落ちた。  守りたいと思った庇護欲はエゴイズムにまみれていて、それをわかっているけれど、けれど、それが本心なことにかわりはなく。  どんどんとその一見きれいな欲望はもっと醜い独占欲へ変わっていって。まだ、そんなことを言う権利もないのに、と思う。  理解していたのだけれど、止められなかった。出るのは溜息ばかりだ。煌煌と電気のついた部屋で、また仲本は座卓につっぷした。明日の朝、きっと速瀬は何も無かったかのように仕事モードで仲本に接してくるだろう。けれど、おそらく絶対に目をあわせてくれない。それに、宣言通り、帰ったら近いスケジュールは全部別のパートナーに変更されるに違いない。  頭をごろりと動かすと、低くなった月が窓から見えた。天は何がおこっていてもただ規則どおりに動いて行く。あの日おちていった太陽のように。  下の世界にかまうことなく、ただ、ゆっくりとまわっていくだけ。

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