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 ライナルトは小さな声で告げる。 「【ウシュムガル】です。正気に戻ってはいるようですが、厄介ですね」 「学園長の妖魔。いつも大人しそうにしていたけど……」 「人間に従っている間は本性を隠していたのです。彼は元々、とても好戦的な性格をしています」  その言葉通りのことを、セシルは肌で感じ取っていた。ウシュムガルの目は血のような赤色だ。闘気にまみれてぎらついている。 「せっかくこうして自由の身になれたんだ。好きなことをして過ごそうじゃないか。俺はなあ、学校であんたの姿を見た時からずっとうずうずしていた」  黒い竜は空中で直立の姿勢をとる。背中で大きく翼を広げた。それは野生動物が相手を威嚇する際に、自らの姿をより大きく見せようとする姿に似ていた。 「あんたと俺。どっちがより強いのかってな」  言うや否や、ウシュムガルが飛びかかってくる。ライナルトは高度を下げることで突撃を避けた。  ウシュムガルとすれちがう寸前、セシルは気づいた。誰かのうめき声が聞こえたのだ。ハッとして、彼の手元を見る。『魔術師の塔』の制服であるケープ・ローブ。その端が手の中に見える。 「誰かを捕らえてる!」  セシルは叫んだ。  ウシュムガルが空中に土を生み出すのは同時だった。 「おら、しっかり唱えろよ! しくじったら殺すぞ?」 「うっ……」  手の中の誰かが呪文を唱える。土が集まり、岩となる。形を変えて数本の槍となった。 「ライナルト!」 「はい」  エルムとライナルトが合わせて、水魔術を完成させる。セシルたちの前面に水の壁が出現し、瞬く間に凍り付いた。『アイスウォール』。氷の壁を作り、敵の攻撃を防ぐ呪文だ。ウシュムガルの槍は壁に突き刺さり、阻まれた。  セシルは呆気にとられて、 「兄さん、今の……」 「ああ、学生を捕らえて無理やり従わせている。下衆め」 「ああ? 仕方ねえだろうが。人間と力を合わせねえと、魔術が起動しねえんだ。まどろっこしいったらねえぜ」  と、悪態を吐いたのはウシュムガルだった。 「今まで散々、俺たちをこき使ってくれたのはどいつだ? 立場が逆になったからって文句つけんな」  その声がすぐ近くから聞こえてくる。思ったよりも近距離にいる。  氷の壁に竜の影が透けて見える。と、次の瞬間。  派手な音を立てて、壁が壊れた。ウシュムガルが突撃し、頭の角で壁を割り砕いたのだ。ライナルトの体が揺れる。 「2人とも、しっかりと僕に捕まってください!」  氷の破片を避けながら、ライナルトは旋回する。  セシルはあっと声を上げた。ウシュムガルの頭上には岩で作られた槍が2本残ったままだ。飛ばさずに温存していたのだ。 「ライナルトさん!」  叫んだ時には遅かった。  ウシュムガルがライナルトの体にその槍を突き刺す。鮮血が空へと散った。ライナルトの体が横側へと揺れた。  セシルの視界に氷の破片が映る。気が付いた時には自分に額に直撃していた。意識が遠のいて、体が揺らぐ。  次の瞬間、セシルは空中へと放り出されていた。 「セシル!」  エルムが咄嗟に手を伸ばすが間に合わない。  セシルは再度、空から落下していく。思考がまとまらない。生温かい液体が額からあふれ、空中へと飛散していく。目の前がくらくらして、今、自分がどの辺りを落ちているのかも把握できなかった。  頭上から兄の叫び声が聞こえる。  意識が遠のいていく――その時だった。  少年の体を風が撫でる。優しくてやわらかい風だった。この風は好きだ、とセシルは思った。手が、体が、何かに触れる。ふわりと包まれた。  セシルがハッと気が付いた時には、少年は空を飛んでいた。何が起こったのか、とセシルは目を白黒させる。優しげな声が答えた。 「セシル」  聞き覚えがある声だ。そして、胸が切ないほどに苦しくなる。  セシルはホッと息をついて、その背にしがみついた。翡翠色の鱗が太陽光に輝いている。 「テゼールさん……来てくれたんですね」 「マルクスとの主従契約が切れた今、彼のそばにいる意義がありませんから」  ライナルトの竜姿はたくましく飛翔の仕方も豪快だった。それに比べて、テゼールは蛇のような体に大きな翼を持った竜だ。空をまるで泳ぐかのように進んでいく。その姿はとても優美だった。 「私の竜玉を身に着けてくれているのですね。おかげであなたの居場所がわかりました」 「これ……僕のお守りなんです」  少し気恥ずかしくて、セシルは頬を染める。 「セシル、無事か?」  兄の声が降ってくる。セシルは片手を上げて応えた。  見上げると、ライナルトはまだウシュムガルに襲われている。彼らの方がずっと危険な状態にいる。セシルはテゼールに向かってくれるよう頼もうとしたが、それよりも先に。 「俺たちのことは気にするな! 先に行ってくれ」 「セシル様! フェンリル様を元に戻せるとしたら、それはきっとあなただけです」  セシルは少しためらって、兄と竜の姿を見上げる。  決意を固めたのはテゼールの方が早かった。 「行きましょう。セシル」  長い体をくねらせて、潜水するかのようにテゼールは下降を始める。

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