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第8話 新生活・2

こうしてごく普通に過ごしていると、千早がΩだということをついつい忘れがちになる。Ωだから、こういう関係になったというのに。 鈍い反応をして、変に辱めてしまった。 「ヒートって、規則正しく来るものなのか?」 「大体は……。でも体調によって、結構変動します。でも、今回はちょっと早まりそうな気がします」 「そういうの、分かるのか」 「ヒートが近づくと、体が火照ったりすることがあって…なぜか今回、異様にそれが早いんです。」 顔を赤くして、気まずそうに千早は話してくれたが、なんとなくセクハラをしているような気分になってしまい、高斗もまた気まずくなった。 「そ、そうか。その時期は俺、出来るだけ家に帰らないように気を付けるから、早まりそうだったら教えてくれ」 「すみません。ちゃんと毎日薬を飲んでいるので始まったばかりの内は大丈夫だと思いますが、本格的に始まると危ないと思うので……」 気づくと千早は羞恥で首筋まで赤くなっていた。色白なので目立ってしまう。 それを見て、高斗は目眩にも似た興奮を感じ、慌てて目をそらした。 「てか、ごめん。薬大丈夫か…?」 「はい。薬だけは胸ポケットとズボンのポケットに絶対入れるようにしているので数日分ぐらいは…アパートに帰れば一ヶ月分の在庫はありますし」 千早はそう言って、毒々しい色のカプセルが詰まったピルケースを見せた。 「悪い。そういうこと何も配慮してなくて…明日は夜中まで仕事だけど、日曜は休みだから、アパートに荷物取りに行こうな」 すでにシフトを入れてしまってどうしても行かなければならない清掃の仕事が何件かあるというので、一応、外出するとき用のスペアキーは渡していたが、あの男が待ち伏せているかもしれないから、一人でアパートや自宅周辺には帰らないように言っていた。 「すみません。せっくお休みなのに」 「いや、俺が誘拐なんて強引なことしたのが悪いんだぞ」 「でも隈すごいですよ。一日寝て過ごしても取れなそうなぐらいくっきりで…」 「いや、一晩寝れば治るから大丈夫だ」 「治るならいいですけど。……綾鳥さん、イケメンなのにもったいないから」 「……そりゃどーも」 そういえば、正直好みだと言われていたことをふと思い出した。 自分がもしバイセクシュアルで、男も対象だったら、千早は自分とも関係しようとするのだろうか。 (やめよう。さっきから変なことばかり考えるのは……) きっと疲れているせいだ。そうに違いない。 明日の夜は久しぶりに夜までゆっくり寝よう。そう言い聞かせて、高斗は優しい味のするその朝食を食べ進めた。 ◼︎ 日曜日。 高斗が千早と共に、彼のアパートに向かったのは、太陽も大分西に落ちてきた16時を回った頃だった。 「ごめん……まさか二時まで寝るとは」 車のハンドルを握りながら助手席に座る千早に謝ると、彼は呆れるどころかうれしそうに笑って言った。 「良かったです。ぐっすり寝られて。あまりにぐっすりなんで、死んでるんじゃないかって心配しましたが」 昨晩、終電で帰ると、シャワーだけ浴びてすぐに眠ってしまった。 千早が湯を沸かしてくれていたが、入ったらそのまま眠っておぼれ死ぬような気がして入れなかったのだ。 バスルームから出た後の記憶は朧げだ。 船を漕ぎながらソファで髪を拭いていたら、千早がせっせとドライヤーで髪を乾かしてくれて、寝室まで誘導してくれたのは覚えている。 ──お休みなさい その優しい声を聞いた途端、糸が切れたように眠りに落ちてしまった。 こんなに深く眠ったのは、人生でも初めてかもしれない。いつもどんなに疲れていても、なんとなく朝が来ると目が覚めてしまう。 「ほら、隈もちゃんと消えただろ? かっこよくなった?」 信号待ちをしながら、顔を助手席に向ける。 千早はじっと高斗を見つめたが、視線が合うと、照れたように顔を逸らした。 「あんまり変わりません」 「……チッ、なんだよ」 不貞腐れると、千早は笑いながら言った。 「隈があってもかっこよかったからってことですよ。でも、今日の顔が一番かっこいいので、毎日ちゃんと寝てくださいね」 冗談のつもりなのかもしれないが、ドキッとしてしまった。 色んな相手に、こういうことを言っているのなら、彼はなかなか魔性だ。 「努力する。……文月さんって面食い?」 「そんなことはないですけど……」 一体どんな相手と寝ているのか興味はある。 だがどうも、男同士の猥談のように気軽に振ることが出来ずに、高斗は運転に集中することにした。 アパートの中はあの日の荒れた状態のまま時が止まっていた。 シャツを捲り、千早を手伝って横転したテーブルや割れた花瓶や食器などを片付けると、こじんまりとした綺麗な部屋になった。 外観はとんでもない幽霊アパートだが、千早の努力の賜物か、部屋の中だけ見ると、非常に手狭ながらに落ち着く空間だ。 千早はてきぱきと荷物を詰めていき、スーツケースは20分もしないうちに満杯になった。 荷造りも終えると、千早がお茶を淹れてくれ、少しの間のんびり過ごすことにした。 「手伝ってくださってありがとうございました。おかげで片付きました」 「……こうしてみると、なかなかいい部屋なんだな」 茶を啜りながら、部屋中を見渡してそう言うと、千早は少し不貞腐れたように言った。 「人住めるのかって言ってたくせに」 「それは外観の話だよ」 「慣れると結構愛着湧きますよ」 「……だよなあ」 ごめん、と内心何度目か分からない謝罪を繰り返した。 どんな家だろうとそこに住む人間の自由だろう。千早は色々工夫して綺麗にして、しっかり暮らしていたのだ。 誘拐だなんて今思い返しても狂ったことをしたと思う。それを感じ取ったのか、千早は言った。 「でも……綾鳥さんの家に行った日の夜、初めて朝までゆっくり寝られたんです。この家だと夜中とか朝方に、ちょっとした物音で心配になって起きてしまって。こんなに安心して眠れる日々は、初めてです」 千早はいつも高斗の睡眠不足による隈や顔色を気にしているが、思えば彼自身のほうがいつも顔色が悪かった。 コンビニで店員をしていたときもどんなににこやかに接客していても、体に染み付いたような疲労感が滲み、憂いを帯びていたような気がする。 色白なせいでそう見えるのかと思っていたが、白熱灯のレトロな照明に照らされた今の彼の顔はとても血色がいい。 「………そうか。それは良かった。セキュリティだけが取り柄だからな、あの家は」 「住み心地もいいですけどね」 「文月さんが来てくれて大分家っぽくなってきた気がする。まだあんまり帰れてないけど」 皮肉を言った訳でもないのに、千早は複雑そうな顔をして眉を顰めた。 「庶民の生活感が出てないか心配です……」 「そういう意味じゃねーよ。住みやすい風に改造してくれていいぞ。この部屋俺も落ち着くし」 「でも、三ヶ月後、僕が出て行った後どうするんですか」 「……三ヶ月って、最低期間だからそれ以降もずっと働いてくれていいんだぞ。というか、続けてほしい」 千早は嬉しそうに微笑んだが、それ以上は何も言わなかった。 彼は本当に三ヶ月であの家を出るつもりなようだ。 出て行きたいと言われたら、今度はさすがに引き留められない。 もうこうして、会うこともなくなるのだろうか。 (まあそれでも、書類上は繋がってるから……完全に他人になることはないんだよな) 「……あ、そうそう。つがい届さ、正式に受理されたって、昨日役所から電話あったんだ」 「ほんとですか?」 「ああ。親父にも報告させてもらった」 「僕みたいなのつがいにして、怒られませんでした?」 「なんで怒られるんだよ。別に普通だったぞ」 何か詮索されたらとか、連れてくるように言われないか心配していたが、つがいの証明書さえあればいいらしく、何の興味も示されなかった。 前まではそういう冷淡な父の態度に苛立ちを感じていたが、今回は逆に安堵した。 千早を、父に会わせたくはない。 「では、僕たちは書類上、正式につがいになったわけですか」 「ああ、そういうことになるな」 「……よろしくお願いします」 卓袱台越しに正座していた千早が丁寧に頭を下げたので、高斗もあぐらをかいていた足から座を正して頭を下げた。 「こ、こちらこそよろしくお願いシマス」 「…………」 「…………」 なんとなく恥ずかしくなり、千早はその空気に耐えかねたのか、飲み終わった茶器を片付けながら言った。 「そ、そろそろ帰りましょうか!」 「あ、ああ……」 部屋の外に出ると、もう18時近いが、初夏は日が長く、まだ夕方の赤い日差しが伸びていた。 「今日のご飯は、何がいいですか? 初めてですよね。晩御飯」 「そういえばそうだな。ずっと帰りが遅かったから……」 「せっかくなので好きな物作りますよ。何がいいですか?」 「うーん、カレー」 「なんかもっと凝ったもので食べたいのないんですか? こう……アクアパッツァ…?とか食べてそうなイメージなんですが」 「どういうイメージだよ。……好きなのはカレー、ハンバーグ、オムライスだよ」 「もー、じゃあカレーにしますよ」 「楽しみだ」 そうして笑いあいながらアパートの部屋を出て廊下を歩いていると、ふと千早が足を止めた。 ひび割れたコンクリートの床に、長い人の影が伸びる。 まさかあの男が?と思い、慌てて前を向くと、そこには高校生ぐらいだろうか。 少し長めの金髪の、美しい少年が立っていた。

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