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第13話 傷痕・2

「…………………ごめん」 他に、言える言葉がなかった。 葵の母親は心を病み、今は実家に身を寄せていると言う。 彼の言う通り、病ませた原因である自分が行ったところで、火に油を注ぐだけだ。 千早が高斗と一緒に満ち足りた幸せを送っている一方で、葵はずっと孤独の中にいて、実母から暴力まで受けていた。 高斗と出会うまでずっと、日々生きるためでずっと精一杯で、何も気づかなかった。 自分を恨んで傷つける葵に、恐怖すらしていた。彼の立場からしてみれば、千早を恨むのは当然のことなのに。 葵はまだ、あどけなさの残る高校生で、誰かの庇護が必要だ。 「葵。僕、今住み込みの仕事してるんだけど、滅多にないようなすごく割のいいバイトで……その契約が終わったら結構お金たまるから、新しくちゃんとした部屋借りようと思ってるんだ。それでその……、嫌じゃなかったら、葵も一緒に住まないか?」 葵の目が驚きに見開かれた。 「何言ってんの? 正気?」 「うん……あんまりいい暮らしさせてあげられないかもしれないけど……これからはどんなことでもしてお金稼ぐから……葵が社会に出て独り立ちするまで、葵のこと守る」 「……守る? あんたが俺を?」 葵は馬鹿にしたように鼻で笑ったが、千早は真剣な表情で続けた。 「ずっと、一人にしてごめん。葵は大事な弟なのに……」 その瞬間、葵の顔がさっと怒りに歪み、千早の肩を掴むと、思い切り押し倒した。 「痛っ……」 フローリングに頭をぶつけ、痛みに呻く。突然のことに恐怖を覚え、体を起こそうとするが、体重をかけられて抑え込まれ動けない。 「弟って言ったら殺すって言ったよな? 俺はあんたの事、兄だなんて思ってないから。何が弟だよ。こんな簡単に俺に押し倒されて」 「はなせ……っ」 千早は腕で葵の胸を押し返して必死にもがくが、上背の違う彼を押しのけられない。 「俺と一緒に住む? 本当はあの官僚と一緒に暮らしたいんだろ? 〝どんなことでもする〟ってなに? 正式にあいつの愛人つがいになって金貰うの?」 「ちが…っ、そんなんじゃな……、! 何するんだよ!」 葵は千早の着ていたTシャツをまくりあげた。そこには高斗に付けられた、真新しい痕がいくつも残っている。 本当の弟のように思っている葵にその痕を見られるのが耐えがたくて、千早は顔を逸らして唇を噛んだ。 葵は千早の体に散った鬱血の痕を指先で辿りながら微かに喉を鳴らして言った。 「なんだよこの痕。娼婦みたいな体してさ。割りの良いバイトってあの官僚だろ? 毎日体売っていい暮らしして汚い金貯めてその金で俺に償おうって? ふざけんなよ」 「そんなんじゃ……ない、から……高斗さんとは本当に、これきりだから」 最初から三か月だけのつもりだった。 高斗が誘拐という形を取って、逃げ道を塞いでくれたから選べた選択肢だ。 その契約期間以上、続ける気は絶対にない。 必死に訴えるが、葵は全く信じない。 「別に俺、ババアの事はどうでもいいんだ。どうせ近々病院に入れるって叔母さんが言ってたし。ただ、全部ブチ壊したあんただけあの官僚とつがいになってハッピーエンドっていう方が許せないんだよね。俺としては」 「……ならない」 「嘘つくなよ。随分あいつに気に入られてるじゃん」 「ならないから大丈夫……、なれない、し……」 そう口にした時、ぶわりと瞼が熱くなり、慌てて唇を噛んだ。 「ま、官僚のつがいなんかになってもどうせ、すぐ捨てられるよ。Ωって、初めて抱いた時はβなんかとは比べ者にならないほどよくてすごいハマるから、運命の相手だって勘違いするαは多いけど、他のΩを抱いてみると大差ないんだってさ。だからその内、あんたみたいな陰気な奴よりもっと良いΩを見つけて……」 「……わ、かってる……っ、ごめん…、わかってる、から……っ」 顔を歪めて絞り出すようにそう言うと同時に、堪えていた涙が堰を切ったように流れ出した。 「……ちー、ちゃん……?」 葵はひどく困惑した顔をして、千早から身を離した。 葵の前で泣いたのは、子供の時以来かもしれない。葵の前でだけは、泣いてはいけないと思っていた。 彼は一番の被害者だから。 早く涙を止めなければ。そう思うのに、胸が苦しくて、涙が溢れて止まらない。 「生まれて、こなきゃ良かったって……っ、僕も思うよ……、僕が一番、そう思ってる……っ、ずっ、と…でも……っ」 ごめん、ごめんなさいと繰り返し、千早は長いこと葵の前で泣いていた。 一体、何に対する謝罪なのか。 何に対する悲しみなのかもわからない。 葵は憑き物が落ちたような顔でただ茫然と、子供のように泣きじゃくる千早を見つめていた。

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