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十七話 後悔ばかり

 名刺を貰ったときに、確認しておけば良かった。そうすれば、食事になんて行かなかったのに。深入りせず、あの夜だけの夢のような出来事だと、諦めていたのに。  どうやって家に帰ったのか、あまり覚えていない。棚の上に飾られたネクタイと名刺に触れ、漏れ出そうな嗚咽を押さえようと口を手で覆う。  大切なひとの、大切なひとに手を出してしまった。  そう思った瞬間、どうして良いか解らなくなった。  あの瞬間までは、康一の手を取ろうと思っていたのに、気づいたら逃げ出していた。芳明にしてしまった後悔を引き摺って、自分自身と芳明に苛立ち、一歩も進めなくなった過去の自分がフラッシュバックする。  俺と芳明の凍りついた時間を進めてくれた、太陽のように大切な赤澤の、兄。そんな人に、触れて良いはずがない。  そんなこと、出来るわけがない。  触れようとしたのが、間違いだった。  たった一晩の思い出。それで終わらせるべきだったのだ。    ◆   ◆   ◆ 「なんだ、酷ぇツラだなあ。研修はどうだったよ?」  高槻の言葉に、苦笑いして誤魔化す。浮かない顔をしていると、自分でも解っている。報告書を書こうとして溜め息を繰り返し、その度に康一の影がちらついた。  康一からの連絡は、拒否してしまった。康一が何と思ったか解らない。けれど、言い訳のために逢うのも苦しい。未練ばかりで、どうしようもない。 「研修は、勉強になりましたよ」 「ふぅん? まあ、それなら良いけどよ。お前、営業のくせに顔に出やすいからな。今日は外回りしないで、報告書でも書いてろ」 「……すみません」  付き合いの長い高槻は、それ以上何も言わなかった。赤澤に逢う気分でもなかったので、指示はありがたかった。  パソコンに向かって入力をしながら、画面に次々と来る通知に目をやる。研修のせいで、仕事は溜まっていた。 (しばらく、仕事に集中しよう……)  逃避でしかない。けれど、逃げなければどこに行けるというのか。  逃げは、恥ではないはずだ。    ◆   ◆   ◆ 「ヒューバードの発注取れました。承認お願いします」  書類を手渡した俺に、高槻は怪訝な表情で俺を見る。仕事を取ってきたって言うのに、なんでそんな顔をしてるんだ。  高槻は溜め息を吐きながら、書類を受けとる。 「お前最近、仕事詰め込みすぎだぞ。仕事取ってくんのは良いけど、設計のやつらの仕事量も考えてやれよ?」 「ちゃんと話は通してますよ。ヒューバードはでかいじゃないですか」 「そらそうだが」  康一を拒絶してしまったあの日から、十日以上経っていた。俺は仕事を増やして、あまり考えないようにしている。康一がどう思っているか、解らない。想像するのも辛い。赤澤に逢うのも気が引けて、最近はメールでやり取りしていた。 (いつまでもこのままじゃ不味いんだけど)  赤澤とは、普通にしなければ。幸い、康一と遭遇する機会はなさそうだ。 (いっそ、誰かいい人、探そうかな……)  アオイの誘いに乗っても良い。大吾に紹介して貰うのもアリだ。  溜め息とともに書類を受け取って席に戻ると、机に置きっぱなしだったスマートフォンにメッセージが入っていた。芳明からだった。 『お父さんの誕生日相談したいんだけど』 (ああ、誕生日か)  義父の初めての誕生日だ。息子二人が祝わないわけには行かない。俺は了解の返事をして、画面を眺める。一覧には、拒否した康一のアドレスが残っている。  たぶん、赤澤も来るだろうし。その時には、ちゃんとしてないと。 (……今日は、大吾と飲むかな)  いつでも馬鹿みたいに笑ってるヤツだ。元気を分けて貰おうと、メッセージを送信した。

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