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8 離れられない二人①

 酷い気分で朝を迎え、鏡で自分の顔を見ると、案の定目が腫れていた。腫れた理由を聞かれるだろうことや、それに対する嘘を考えるのも億劫で、のろのろと支度を済ませて部屋を出る。 「あ」  ドアを開けた途端にばったりとヒューネルと出くわした。こんな時に限って会ってしまう自分の間の悪さを嘆きながらも、ヒューネルから目を逸らせずにいると、ヒューネルが俺の頬に手を伸ばしかけて。 「レオ殿、こんなところにいらっしゃいましたか。少々お話が……エレン殿?」  廊下の向こうからウィリアムが現れ、ヒューネルが手を下ろして俺からぱっと半歩離れる。既に俺から逸らされてしまった視線を残念に思いながら、ついとウィリアムに視線を移した俺は目を瞬かせる。 「ウィリアム殿?なんでその格好なんですか?」  にこにこと俺たちの方に近づいてきたウィリアムは、なぜか騎士団員の格好をしていた。 「ああ、これは今レオ殿に説明しようとしていたことなんですが、私もしばらく剣術指南役として団員に指導することになりまして」 「剣術指南役?でもあなたは王の側近なのでは……」 「ええ。ですから普段は王のお側に仕え、数日に一回か週に一回教えに来る予定です。王にそうするように仰せつかりました」 「王に?お前が王に頼み込んだのだろう?」  ヒューネルの目がちらりと俺を見る。 「?」 「いえ、王にそう命じられました」  あくまでも王という言葉を強調したウィリアムは、付け加えるように続けた。 「それと、レオ殿に陛下から言付かっております。明日、アルス国よりナスターシャ王女がお越しになられるので、出迎えと婚約の話を進めるようにと。どうやら王女はエレン殿を気に入っておられるようですが、王は両国の結束をより強めたいとお考えのご様子。それに」  ウィリアムもなぜかちらりと俺に目を向ける。 「?」 「レオ殿がはっきりと意思表示をされなかったので、痺れを切らされたのかもしれません。私も今回のことは少し、あの王にしては強引過ぎると思いましたが」  俺が協力するまでもなく、ナスターシャの願いがあっさりと叶えられようとしている。ヒューネルがどう応えるかなど分かっていたのに、彼が応えた瞬間に足元が崩れ落ちるようだった。 「分かった。前向きに検討すると俺から父上に伝える」  立ち去りかけたヒューネルが、束の間俺を見る。昨日、名前を呼んでくれた時はあんなに熱っぽい眼差しをしていたのに、今は何を思っているのか読み取れない。  背中を向けて去っていくヒューネルに手を伸ばそうとしたが、思い止まって手を下ろす。忘れると約束した自分が恨めしいけれど、他にどうすればよかったというのだろう。 「エレン殿」  ウィリアムがそっと肩を抱こうとしてきたのを、軽く身を捩って逃れる。するとその動きを見通していたのか、今度は正面から顎を掬い上げられた。 「ウィリアム、殿……?」 「ウィリアムで構いません。目が腫れていますね。泣いていたのですか?」 「……」  視線を逸らそうとすると、目尻にそっと口付けられた。 「ウィリアム……?」  間近にあるウィリアムの顔がどんどん近づいてくるが、当然ながらヒューネル相手の時のように胸が騒ぐことはない。半ばぼんやりと見つめていて、唇が触れ合いかけたところで、他の団員の声が聞こえてきて我に返る。 「おい、聞いたか?ウィリアム様が剣術指南に来るって話」 「聞いた。アルス国と同盟を結ぶらしいしな。アルス国の王といえば、ちょっと血気盛んだって聞くし、俺たちも他国への侵攻に駆り出されたりして」 「物騒だな。リンディス王を見習ってほしいよな。争い嫌いな平和主義者だし」 「いや、でも意外とリンディス王の方が……」  廊下の角を曲がってきた数人の団員がこちらに気づき、すぐにウィリアムへと視線を向ける。 「ウィリアム様、噂は本当だったんですね。お世話になります」  わっとウィリアムの周りに団員が集まり、賑やかになった。ウィリアムはいつの間にか人気者になったらしい。  俺はその輪から外れ、廊下を歩いていく。無意識にヒューネルの姿を探すと、宿舎の出入り口にある大木の木陰で腕を組み、何かを考え込んでいる様子だった。  俺は近づこうとして躊躇い、そっと死角になるところに隠れて様子を窺うだけに留める。何人かの団員が通り過ぎたが、ヒューネルは誰ともろくに挨拶を交わしたり雑談するでもなく、ただじっとその場に立ち尽くしていた。  そよ風が吹き、ヒューネルの前髪を僅かに揺らす。もともと整った顔だとは思っていたが、こうして黙っているところを眺めると、とても絵になる光景だなと見惚れた。だが、次の瞬間、予想外のことが起こって呆然とした。  ヒューネルの片目からつうっと一筋の雫が零れたからだ。 「エレン……っ」 「……っ!」  切なげに自分を呼ぶ声に息を呑む。ヒューネルは、本当は。  ヒューネルに声を掛けようとしたところへ、一筋の突風が吹き、条件反射で目を瞑る。風が止み、次に目を開いた時にはもうヒューネルの目からは涙は零れておらず、ただ静かな表情をしたままどこかへ歩いて行ってしまう。 「まっ……」  今度こそ声を掛けようとしたが、背後から肩を叩かれて遮られた。振り返ると、テラが片頬を上げてぎこちなく笑いながら立っている。 「テラ?」 「何してた?」 「いや……」  正面に向き直ると既にヒューネルの姿はなく、軽く唇を噛む。 「今誰かいたよな?ごめん、俺が邪魔したか?」 「ううん。テラは何か用?」 「エレンを見かけたから、手合わせしたいなと思って。さっきウィリアム様が、皆を集めて剣術を教えるって言ってたから行かないか?」 「……うん、そう、だね。行くよ」  幾分気落ちした声を出してしまったからか、テラが俺の顔を覗き込むように見る。 「何か、目が腫れてるな。冷やすもの持ってこようか」 「ううん、いいよ。多分しばらくしたら治るから」 「……そっか」  テラはそれ以上深く聞いてくることもなく、俺と共に歩いてくれる。少し前では考えられないことだ。  ウィリアムの剣術指南は、王の側近を務めるだけあってとてもためになるものだったが、終始ヒューネルのことばかり考えてしまって身が入らなかった。そのせいか、テラに何度も剣を弾かれ、膝をつく。実践だったら命がいくつあっても足りなかっただろう。 「エレン、休憩しようか」  テラが差し出してくれた手を掴みながら立ち上がった時、突然わっと歓声が上がった。何事かとテラと共に目を向けると、いつの間にか団員のほとんどが打ち合いを止め、何かを囲って人だかりができていた。 「おい、何しているんだ?」  テラが近くにいたオリバーに声をかけると、オリバーは興奮気味に言った。 「ウィリアム様とレオの手合わせだ。両者一歩たりとも引かなくて、今のところ完全に互角だ」  その言葉を聞いた瞬間に体が動いていた。人垣を強引に掻き分け、よく見える位置に移動する。  やがて剣のぶつかり合う音と二人の息遣いさえ聞こえる距離に近づいた時、ウィリアムとヒューネルの剣が互いの喉元に触れる寸前で止まっているのが見えた。 「レオ殿、あなたの今の剣には迷いがある。何か悩んでおられるのでしょう?」 「……」 「あなたの本当の気持ちを彼も聞きたがっているはずです。諦められないなら……」 「お前には関係ない!」  ヒューネルが叫ぶと同時に、ウィリアムの剣が弾き飛ばされる。負けたのはウィリアムだというのに、ヒューネルの方が顔を歪めてその場を立ち去る。  ヒューネルを取り囲もうとした団員達は、彼の様子がおかしいことに気づいたのか、代わりのようにウィリアムの周りに集まっていく。 「レオ!」 一人、宿舎の方へ戻っていく背に呼びかけると、足を止めたが、振り向こうとはしない。 俺は急ぎ足で近づくと、彼の左頬に手を伸ばし、そっと触れる。打ち合いの際に切れたのだろう。ほんの僅かに指先に血がついた。 「頬、血が出てるよ」 「……っ」  手当てを、と言いかけた言葉を飲み込む。ヒューネルが何かを訴えるような目で俺を見た。 「レオ……?」 「エレン、こうやって俺に関わろうとしないでくれ。俺が苦しいから」 「レオ、俺が苦しませているの?どうして?」 「……っ、俺はエレンを」  ヒューネルの手が俺の方へ伸びてこようとした時、予想外の声が割って入ってきた。 「ヒューネ……じゃなかった。ここではレオって呼ばれているのでしたわね。レオ様、明日まで待てなくて来てしまいましたわ」  ナスターシャが背後に供を一人連れて、微笑みながら立っていた。 「ナスターシャ様、いけませんよ。先に王にご挨拶をいたしませんと」 「あら、どちらにしてもレオ様もお呼びしないといけなかったでしょう?私とレオ様が二人揃って王様の元へ向かえば早いわ」  何やらこそこそと供の者と話した後、ナスターシャの視線が俺へと向く。 「エレン、ありがとうございます」 「え?」 「この間のことよ」 「あ、いえ、私は何も……」  ナスターシャの願いに関して、俺が助力したと思わせてしまったのだろう。にこりと微笑まれて反応に困っていると、ヒューネルが間に割り込んできた。 「ナスターシャ様、共に王の元へ参りましょう。本日はお越しくださりありがとうございます」 「私が押しかけたのですから、お礼はいりませんわ。そうね、参りましょう」  ヒューネルがナスターシャの隣に並び立ち、王宮へ歩いて行く。二人がとてもお似合いに見えて、胸を痛めながら見送る。  ヒューネルはこのままナスターシャと結婚してしまうのだろうか。でも、ヒューネルはきっと。 「君に好きだと言うことはできない」とヒューネルが告げた時のことが蘇る。あれは言うことができないだけで、今でも好きだと言っているのに等しい。そして何より、ヒューネルの流した一筋の涙が伝えてくれていた。  けれど、両想いだと分かっただけでは喜べない。この状況を変える力は自分にはない。  自分自身の無力さを痛感しながら、俺はただ遠ざかる二人の背中を見送り続けた。

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