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儚き兎の夢⑥【狼視点】

 気を失った(わたる)を担ぎ、病院に向かう。  タクシーの中、莉久(りく)はずっと泣いていた。 「ごめん、ごめんなさい」  って、壊れた玩具みたいに。 「莉久が悪いわけじゃないよ…」  ようやく絞り出した声は疲れきっていた。  病院で、体内に射精された精子を殺す処置を受け、一先ず安堵する。  これで航が妊娠することはない。  ただ、ただ……。  涙は止まってくれなかった。  家に帰り、航を布団に寝かしつけて、ふと見つめる先には……。 「航、莉久に首噛まれちゃったんだな」  呆然とその傷を眺めた。 「こんなんなら、嫌がる航を抑えつけてでも、俺が噛みついておけば良かった……」  両手で顔を覆って、声も我慢しないで泣いた。  自分はなんてバカなんだろう……そう思うと悔しくて悔しくて仕方なかった。  ただ、これだけは言える。  今回の事は、莉久が悪いわけじゃないし、航だって悪いわけじゃない。  これがΩとαの悲しい運命……。  この悲しい運命には、誰も逆らえないのかもしれない。 「寛太(かんた)……」  月明かりに照らされた航が、ふと目を開いた。 「どうした?」  そっと頬を撫でてやれば、悲しそうに笑った。 「もう、さよならだね」 「はぁ!?お前何言ってんだよ」  強がって鼻で笑ってみせる。  突然何を言い出すんだよ。  『さよなら』なんて、絶対にあり得るわけないだろう。 「寛太はわかってないんだよ、これから起こることが……。きっと、きっと寛太は耐えられない」  航の頬を撫でていた手をギュッと掴まれた。 「そしたら……そしたら俺を捨ててくれ。寛太だけでも幸せになってね」  引きつった顔で懸命に笑う航が、可哀想で仕方ない。  Ωに生まれてしまったがために、なんでこんな思いをしなきゃなんないんだよ。  航に口付けようとした瞬間、それは起きた。 「ぐっっ……あぁ……ぐぁぁぁぁ!」  突然低い声で唸り出し、胸を掻きむしりながら身悶える。  目を固く閉じ、必死に酸素を求め、苦痛にただただ耐える姿には見覚えがあった。 ……発情(ヒート)だ。  でも、いつも感じることができていた、航のフェロモンを俺は全く感じることができなかった。  それは、航に番ができた証。  発情(ヒート)を起こしたΩは、交尾のことしか考えられないくらい発情し、番をひたすらに求める。  番ではない俺が、寛太にしてあげられることなんて、ないのだろうか……。 「莉久……莉久……!!お願い、抱いて……莉久……!!」  苦しそうに、でも切なそうに名前を呼ぶのは、俺ではなく莉久……。 「航、航……お前には俺がいんだろうが?」  必死に名前を呼びながら抱き締めるけど、俺の声なんか絶対届かない。 「莉久!莉久!」  涙を流しながら、夢中で莉久の名前を呼び続ける航を見て、呆然としてしまう。  それと同時に、番同士の絆の固さを思い知らされた。  どうしたらいいんだよ……。  ただ、苦しむ航を呆然と見つめることしかできない。  こんなに苦しんでる航を目の前にして、何もしてあげられないなんて。  ついさっきまで、 「大好きだよ」  って笑ってた航は、もうどこにもいないんだろうか。  俺は、航に会いたかった。  いつもみたいに、天真爛漫に笑う航に会いたかった。 「大丈夫、大丈夫だよ。お前には俺がいるから……」  ただ、自分と航に言い聞かせるように囁きながら、その体を抱き締めることしか……今の俺にはできなかった。

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