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流砂

 園山が発って、狭く、光の柱が降りた、自分の居所ではない房で、 本当に『ひとり』、という空間のなかに俺は置かれた。 「高階、21房の清掃に入ります」廊下から園山の伝達する声が聞こえる。  あれほど園山から力を尽くして、言葉、眼、想いを託されたのに、 この今居るがらんどう同様、完全に腑抜けと化した俺は、いまだどこか、確かに響いた筈であるのに、先ほどまでの有り様、伝えられた残姿が、 まるで自分より何層か離れた出来事のように浮揚して、心の(おく)に落としこまれていない情態だった。  だが、机に置かれた左の甲を見る。  熱が、まだ沁みるように残っている。 園山に握り込まれた熱。  それは、無くしたくなかった。  左手を浮かせて、そっと右の掌にそれを重ね合わせた。包むこみように。この身体に、溶けいるように。  それは、 なくしたくなかった。 ——掃除、だ……。  考えなくても、感情を流しこまなくても、身体を動かせていればいいだけのことに、再度頭を巡らせる。  不意に、文机の影に置かれていた、収納籠の存在が目に入った。  ずく、と心臓がふるえる。  籠のなかに、綺麗に畳まれた上半身を見せているのは、天川がいつも着ていた、グレーのウインドブレーカーだった。  揺るぎ始めた心音を漏らさぬように。そっと近づいて、音がしないようにそれを、おそれるように、何かを零れ落とさないかのような触れ方で、掬い取る。    軽かった。元より、光沢感のある外面そのままの軽量の素材で、充分な中綿も入っておらず、厳寒の年始も、これで寒さを凌げるのかと何度か確認した。  中に結構厚いの着てるから大丈夫。チャコールのタートルネックを覗かせて、笑っていた。  隠しきれなくて、白い肌に浮く黒子も同じように弛んでいるかに見えた。  これが、あの細い肢体でも、熱を持った身体が袖を通して、生身の人間を形づくっていたものとは、とても思えなかった。  少しでも力を抜けば、掌から零れ落ちていきそうな、熱を生成しない繊維。  これを実際着ていた姿を見たのは、二日前だ。  一昨日は、このまま春突入かと思えた陽気がまた一息に降下して、背を向けた筈の冬の名残の袖を見るような寒さだった。  真冬の冷気のなかでも案外けろりとしていた顔が、その日は湿った早春の風にほそい肩をいからせ、頬を竦めていた。  中の白いTシャツは袖は腕まであるだろうが春の薄物だろう。露わに見える頸と鎖骨がより白く思えて、つい手を伸ばして何かしてやりたい心地にさせられたが、その腕はまた、胸の内で下ろしていた。 『この分だと蕾がまた、閉じちゃうかもなあ』  話を振って、気を紛らわせようとする。  そうやって俺は、思えばずっと、口先ばかりかで彼の背に手を添えるようなことが、何一つ出来ていなかったのではないか。  まだ黒々とした樹皮に覆われ、けれども所々に薄桃の新芽が息づいている樹を、天川はどこか不服そうに見上げている。 『春だから、気温の乱高下は仕方ないよ。でも、そのうち一気に咲く気配はもうしてるよな』  慰めるように向けたが、天川はまだ物言いたげに俯いていたので、どうした? とその顔色を窺う。 『…………花見の時の、お題、何なの。ヒント、欲しいよ……』 『え? ああ……、』  自分で振っておいて、歌のことは二の次になっていた。  天川と桜を見る。愉しみなのは、まずそれだったからだ。 『正月の時みたいにまた失敗するの、嫌だよ……』  あの時、寒さで(かじか)んでいた口角が大いに解れて、でも浮かない表情をしていた天川を思い出し、反省がまた二重のようにして追ってくる。 『ごめん、笑ったのは、寒くてしんどかったけど、天川の歌で、凄く和んだからなんだよ。……じゃあ今度は、天川が先に詠んでみる?』 『ええ……っ、いいよ……、』 『何でもいいよ。その時思ったことで。詠まなくたっていいし』 『…………"桜餅"、とか……?』 『餅? また餅? 天川、餅が好きなの?』 『ええっ……、それほどでも、ないけど……』 『そっかあ。じゃあ(ヤン)さんに、今度の特食で頼んでみるか。わかるかなあ、桜餅』 『……』 『ん……?』 『……あのしょっぱい葉っぱは、いらない。あと餡子は、粒じゃないやつ……』 『ああ、正月の饅頭は、粒餡だったから重いって言ったのか。……こし餡が、好きなの?』  笑うと目が糸のようになる、という喩えをよく聞くが、天川は、嬉しい、楽しい、という感情が高鳴ると、黒瞳が泉みたいに広がってきらめき、 涙袋が柔らかく膨れて、その存在が、ありありとこちらの心にも染みこむように迫ってくるのだ。 『うん……、』  流砂のように、俺の中の映像が、色を喪くして霞んで消えていく。  桜も、歌も、餅も。天川の瞳のきらめきも。  何もない。  あるのは、今この手にしなだれた、熱の絶えたウインドブレーカーだけだ。  俺は、そこから全ての感情の感覚を、遮断することにした。

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