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むせ返る、大気
戸外へ抜けた瞬間の、『外』を肌に体感したときの充足は、もう忘れかけているが、昔自由に手にしていた時よりも、ずっと濃密で、渇望を浸してきっとあまりある。
塀のうちの外界であるのに。
その先に、もっともっと先まで続く、見果てぬ夢のように茫洋にきらめく、世界 が連なっている筈なのに。
コンクリートに囲われた大気でも、すぐにそれは遮断している俺の感覚に這入りこみ、否応なく刹那にその『存在』をしらしめ、先触れもなく俺を陰鬱に苛んだ。
春。むせ返る、春。
生気に溢れて、花は熟して、草木は新緑の臭気を発奮して撒布する。
あれほど待ち望んでいたのに。
生ける者、誰しもが待ち焦がれて、その息吹にふれれば、綻んで、生きる希望をことほぐ喜びに、目を見合わせて笑いあう筈なのに。
生ける者。生きているもの。
俺は、生きているんだろうか。 生きていて、良いのだろうか。
もっと生きたくて、本当は、その恵みを誰しもと同じに、当たり前に持っていたものが、
つい先ほどまでその息吹を、少しも驕ってなんかいない、ささやかに温めていたのに、
今この、むせ返るような春のかたまりに、それが跡形もなく吹き荒ばれ風塵と化していく幻影が俺を蝕む。
この大気を、春を、享受する筈だったのに。
吐きそうだ。
強烈な生を爛熟させ、躍動が滴るような春のうねる風を受けながら、俺は口許を覆った。
意志を持たない思考のまま、休憩へ向かっていた。格子越しから、
『よお、朔よ。お前の若い女房 、吊るされちまったんだってな。
子供みてえな面 してたのに、可哀相 になあ。ちったあ可愛がってやれたのか?
おてて繋いだいじらしい契りも、お上のお達しの前じゃあ、ひとたまりもないってね、』
下卑た哄笑が耳をなぶったが、
『あんたなんか、直 よっ!』廣さんの金切り声と、諍う声が背後でこだまして、
やめろ廣さん、看守 にどやされる。そんな言葉が胸中にあったが、口外へは浮かばず、そのまま廊下を脱し た。
今しがたの光景も、無味な送風のように背後へ溶け去って行く。
心象をなくし、ただ歩いていた。
前も見えていない。四方も視界に入っていない。だけど、歩いていた。
だって、 約束していたんだから。
「——…………、」
ほの明るい蔭が差した気がして、俺は頭上を見上げた。
薄紅。白。淡いすもも色。
花弁が、ふうわりという音に包まれて、慎ましやかな雌芯も覗かせ、ひらいている。
黒い樹肌ばかりだと思っていた。
なのにもう、いま眼前に聳え立っている幹は、
ついに至高の召し物が完成したといわんばかりに、含羞を滲ませつつも、誇らしく淑やかにその腕を広げ、
清らなる、厳かな品格を吐息ひとつ洩らさず、だのに見るものの感応を突く、あまやかな淡紅の艶姿を、惜しげもなくそこに披露めている。
桜だ。
天空を、一面桃色の大河で流しこんだように、埋め尽くされた、桜。
あれだけ、焦らすように蕾が綻ぶのを惜しんでいたその花が、
まさにいまを咲き誇れよと、開花の宴に眦を染まらせ、満開のたけなわに、匂いたつようなほろ酔いを魅せている。
「…………何なん、だよ……っ」
厳かで、楚々として、静謐で。だのに可憐で。
何の秘すべきものも、躊躇いも汚濁も持ちあわせない。
待っていたのに。
待っていたその姿の、ただ花は、美しい紐を解かせただけなのに。
それすらもなのか。 だから、なのか。
言い知れぬ怨恨に近い、激情が湧いてきて、俺は強かにその幹を拳で撲 った。
何故なんだ。 何故、『いま』なんだ。
解っている。俺たちにはなから時間なんて、当たり前に安寧できる生なんて、はじめから享受などされていない。
花は、ただ当たり前に咲いただけだ。
そこに、手前勝手で甘えた夢想を見出し、押しつけていただけだ。
何が歌だ。何が桜の下で詠もうだ。
何が一緒に、 だ。
そんなのもの、そんなもの何の役にも立たなかった。
少しでも彼の脚にしがみつく汚泥、孤独、虚ろを、掬い上げることが出来たのか。
出来たのだとしても。
だとしても、もう関係ない。 何の関係もない。
天川は、たったひとりでいってしまった。
ひとりで、勝手に連れて行かれて、
—— またあんな父親のもとに、差し出されなければならないのか。
見上げれば、叡智を識り、秀麗な憂いに眉根を寄せるような桜が見降ろしている。
俺はその厳かな佇まいを睨みつけ、樹肌をさらに撲った。
肌が抉られ、鋭い皮が掌外を刺す痛みが突き抜けたが、どうだって良かった。
神みたいな顔をして見るなら。
神ならば、連れて行け。
早く俺も、連れて行け。
天川のもとへ、連れて行け。
陽まりも待ってる。ここで俺も、首を縊 ればいいのか。
天川をひとりにさせるな。
いつもはにかんで、じっとその黒い瞳のうちに澄んだ水面を湛えたまま、
想いを、純粋な想いを、いつだってきっと胸のうちに仕舞いこんでいた。
ふざけるなよ、返せ。
天川を、返せ。
解き放てよ。あいつを穢れた足枷から。
また救いのない闇の底に、あいつを閉じこめるな。
早く俺を、
あいつのところへ、
闇に引き摺りこまれようとしているあいつの、
あいつの元へ、 連れて行け…………、
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