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歌
とめどのない惑乱と烈情に衝かれ、撲 ち続けても、巨木の厳格さに吸いこまれるように、頑とした幹の、肉厚な心身を損ねる隙は何一つない。
やるせない虚しさ、認めたくない哀愁が背に添ってくる。
だけど俺は、憑いたように樹を殴り続けた。
不意に、いつも天川が立っていた場所、その付近の幹の、何かが視界に入った気がし、俺はそこへ眼を瞠って留 めた。
木に、何か——。
導かれるように。まるで天川の傍まで、行くように。
感覚が麻痺した掌を下ろし、そっとその場所まで歩み寄った。
木肌に手を置いて、彼の目線の高さまで首を屈める。
心 の血管が、波拍 つようにふるえた。
黒茶の樹皮に、文字が書かれている。
身を焦がしたような深い色。その中身 をさらけ出すように、ひとの肌の色で、文字の連なりが刻まれている。
文章。いや、違う。
一目通しただけで、決まった文字数に収まるように、言葉と音が撰ばれているような気がした。
これは、 ——これは歌だ。
さくら見る
くる日を待つも
すこしづつ
きみとの時間 惜しくなりけり
天川だ。 天川が、詠んだ歌だ。
一体、いつの間に刻んだのか。
真新しい、一度二度の刻まれた跡ではない。
いつからだろう。俺と桜を観る、約束をしてからだろうか。
工具か筆記具でもくすねてきたのか、繰り返し彫って、風雨に褪せ朽ちていかないかにするような、深みがこめられていた。
文語を使用している。天川は、識 らないと言って、ずっと格式ばった古語は使わなかった。
彼の心情そのままに詠んだ歌が、勿論好きだった。
だけど今、この目に映る、綴られた歌。
なんて。繊細で切なさ惹かれるかも知れない。
だけどなんて、 やさしい歌だろう。
初めて見る、その歌、姿そのままの、慎ましやかな天川の文字を目でなぞりながら、
ひたむきに、使い慣れない古い語句も撰んで詠んだ彼の歌に、
もうどれほどの讃辞を贈りたくとも、その相手は居ないのだということも忘れて、
慕わしさを抑えられず、彼の字に指をふれながら、俺は覚えず笑みを溢していた。
彼の歌を残さず掬いとろうと眺めるうちに、ふと、漢字の当て具合が疎らな気がして、不思議に思い、俺はさらにそれに目を凝らした。
白い線のような閃きが胸を降りる。
いつだったか。互いに罪を告白し合って。
陽がどんどん短くなって。
夜の翳りがかすかに見える午後、俺達はそれを語り合った。
俺達は、共に月を眺めたことがない。
ばかりか、肉眼で、夜空に浮かぶその様相を凝視できるほどの姿を、もう久しく目に映していないのだ。
嘆きつつも、それで終わらせたくなかった。
『昔の人は、奥ゆかしいよなあ。スマフォとかないからさ。誰かを想って、会えなくても、夜空の月や、月が見えなくても、それを歌に詠んで、送り合ったり、自分を慰めたりしたんだからなあ』
図体のでかい男が、呑気に、憂世離れした夢見がちな話題を、控えめな若いやつを捕まえてよく振っていた。
だけど天川は、いつだってこちらに首を傾げて、その黒い瞳とともに、真摯に耳を澄ませていた。
『歌って、すごいよな。短い言葉のなかに、色々な意味を込めることが出来るんだから。例えば、掛詞 とか』
『……古典で、習った気がする』
『うん。季節の秋と、あなたを待つのに飽きたの飽きとか。木の松みたいに、いつまでも待つ、とかさ。身をつくすは凄いと思ったなあ。
澪標 と身を尽くす。"身をつくしても あはむとぞ思ふ" 』
『……』
天川は黙っていたが、話題に飽いたという様子はなく、何か思案へ沈んでいるような面持ちだった。
「…………そういうのが、好きなの?」
「え……?」
「そういう、"奥ゆかしい"、やつが……」
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