30 / 96
無垢な線
厳然と塀に断絶された世界でも、この時季ばかりは、世の慌ただしい流れの余波がそれでも何層かを介して、緩やかに到達する。
駆け込みの接見、面会、保釈、——そして執行。
師走、初頭。千景から込められた言葉の残響が、いつまでも胸を拍 っていた頃、一葉の葉書が届いた。
千景から単身で字が綴られ、託された手紙は、あの時のものが最後になった。
ごめん朔さん。ちかちゃん、字を書くのが難しくなって、
これじゃ陽まりより下手だって、そうでもないのに結構プライドが高いもんだから、恥ずかしいなんて言って、
仕方ないから、ちかちゃんの横から私が様子をお報せします。
朔って字が画数が多いとか、随分な難癖までつけてくるの。
千景の病室へは、近隣に住まう彼女の妹の未景 が頻繁に訪れ、見舞い、看護ともに俺の代わりを補ってあまりあるほど、親身にこなしてくれていた。
千景と似通う要素の多い彼女の、晴れやかな面立ちと、賑やかな喋り口調が文面から伝わってくる。
でも、全然元気なの。はっきり言って、全然元気。
御飯もしっかり食べるし、よく喋るし、今日もダッツのアイス買って行ってあげたら、めちゃくちゃ美味しいって、クッキークリーム丸々全部食べて、私のクリスピーも普通に狙ってる。
正直に、元気過ぎて手を焼いています。だから安心して、お務め頑張って下さい。
その傍に、さくくん、と雲のようなハートマークも添えて、陽まりを想い起こさせるあどけなく愛らしい線で、千景の文字が残されていた。桃色の、柔らかな色鉛筆。
純粋に、心が和む。
変わらず仲睦まじい姉妹のやり取り、千景の温かく躍動する仕種が、ありありとふれるほどに上 ってくる。
和むに、決まってる。初めて見るような筆跡で、俺の名前を、懸命に書いてくれた。
唇を噛む。和みの裏の感情を、俺は感じたくない。
この無垢で一途ないのち に、相応しくない。
内の奔流を押し伏せるように、俺のこころが、少しでも彼女の身体に添えと込めるように、
その文字を、強く胸に押し当てた。
未景の便りは、繁く千景の息づかいを運んでくる。
病室 からの眺めは、とても良いです。
遠くに拘置所の大きな姿が見えて、その背後の川の縁が見えないから、まるで海みたいに、晴れの日はきらきらしている。
朔君、今何してるかな。よく拘置所 を見つめています。
さく ひまり
冬の散歩は、寒さは厳しいですが、やはりちかちゃんも解放感がひとしおのようです。
朔さんとちかちゃんの家、掃除させて貰ってるけど、朔さんのマフラーが出てきたから、ぐるぐる巻きにしてあげたら、喜んでた。
さくの におい
安心して。変態っぽいかもって、本人も笑ってた。
ちかちゃん、こんなに甘党だった?
アイスはよく食べるんだよね。
この寒いのに、病室はとても温かくしてるから問題ないです。
あまい ひまり さく
朔さん、短歌詠むんだって? 知らなかった。
手紙沢山有難うございます。いつも嬉しそうに、独り占めしてにこにこ読んでいます。
歌があると嬉しそう。
沢山書いて、沢山詠んで下さい。
さく うた まんてん
ちかちゃん、この頃よく眠る。やっぱり、色々疲れるみたい。でも眠るのだって体力要る。頑張って、生き生きと過ごしています。
目を開けた時、写真があると嬉しいみたいで、見える位置に朔さんと陽まりの写真を置いています。
朔さんのマフラーに包まれてるちかちゃん、
とても可愛い。
さく ひまり
あいしてる
独居房に空調設備はない。冬の兆しは、居所に忍んで来る風の凍えた刃からいち早く感づいていた。
ここでは、外を見たくて、誰かを想って、
眠れなくて身体を起こし窓辺の景色にそれを托したくとも、総て許されない。
俺の不自由など、どうだって良い。
俺は、今この時こそ、俺の罪を、
捨てた筈なのに、なおも根深く息づいている俺の存在意義、根幹に、深く突きつけられている気がする。
この、昏く、冷たい、狭く湿った色相のない巌窟のような場処であっても、
横たわった身体の深奥で、耐えず、未だに心の臓へ温 う血液を循環させ、脈拍つ鼓動を保ち続ける、生命 。
いつだって、そうだ。
この血潮を、引き換えに、残らず注いでかまわないと、そう想ってやまない存在はいくへも居たのに、
そう願ってきたのに、繰り返し、
いつだってそれは風のように攫われて、叶えられないんだ。
神さま なんて存在しない。
気まぐれな信心さで、縋るからではない。
いない。そう思い知らされることは、幾度もあった。
それよりも一層、見えもしない誰かに、
確かに喪いたくないひとを、託したくないからだ。
喪いたくない、かけがえのない、唯ひとつのそのひとを、
誤魔化しなんかに頼りたくない、俺はいつだって、 心の底から信じていたいんだ。
ともだちにシェアしよう!