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無垢な線

 厳然と塀に断絶された世界でも、この時季ばかりは、世の慌ただしい流れの余波がそれでも何層かを介して、緩やかに到達する。  駆け込みの接見、面会、保釈、——そして執行。  師走、初頭。千景から込められた言葉の残響が、いつまでも胸を()っていた頃、一葉の葉書が届いた。  千景から単身で字が綴られ、託された手紙は、あの時のものが最後になった。  ごめん朔さん。ちかちゃん、字を書くのが難しくなって、 これじゃ陽まりより下手だって、そうでもないのに結構プライドが高いもんだから、恥ずかしいなんて言って、  仕方ないから、ちかちゃんの横から私が様子をお報せします。  朔って字が画数が多いとか、随分な難癖までつけてくるの。  千景の病室へは、近隣に住まう彼女の妹の未景(みかげ)が頻繁に訪れ、見舞い、看護ともに俺の代わりを補ってあまりあるほど、親身にこなしてくれていた。  千景と似通う要素の多い彼女の、晴れやかな面立ちと、賑やかな喋り口調が文面から伝わってくる。  でも、全然元気なの。はっきり言って、全然元気。  御飯もしっかり食べるし、よく喋るし、今日もダッツのアイス買って行ってあげたら、めちゃくちゃ美味しいって、クッキークリーム丸々全部食べて、私のクリスピーも普通に狙ってる。  正直に、元気過ぎて手を焼いています。だから安心して、お努め頑張って下さい。  その傍に、さくくん、と雲のようなハートマークも添えて、陽まりを想い起こさせるあどけなく愛らしい線で、千景の文字が残されていた。桃色の、柔らかな色鉛筆。  純粋に、心が和む。  変わらず仲睦まじい姉妹のやり取り、千景の温かく躍動する仕種が、ありありとふれるほどに(のぼ)ってくる。  和むに、決まってる。初めて見るような筆跡で、俺の名前を、懸命に書いてくれた。  唇を噛む。和みの裏の感情を、俺は感じたくない。  この無垢で一途ないのち(文字)に、相応しくない。  内の奔流を押し伏せるように、俺のこころが、少しでも彼女の身体に添えと込めるように、 その文字を、強く胸に押し当てた。  未景の便りは、繁く千景の息づかいを運んでくる。  病室(ここ)からの眺めは、とても良いです。  遠くに拘置所の大きな姿が見えて、その背後の川の縁が見えないから、まるで海みたいに、晴れの日はきらきらしている。  朔君、今何してるかな。よく拘置所(そこ)を見つめています。  さく ひまり  冬の散歩は、寒さは厳しいですが、やはりちかちゃんも解放感がひとしおのようです。  朔さんとちかちゃんの家、掃除させて貰ってるけど、朔さんのマフラーが出てきたから、ぐるぐる巻きにしてあげたら、喜んでた。  さくの におい  安心して。変態っぽいかもって、本人も笑ってた。  ちかちゃん、こんなに甘党だった?  アイスはよく食べるんだよね。  この寒いのに、病室はとても温かくしてるから問題ないです。  あまい ひまり さく  朔さん、短歌詠むんだって? 知らなかった。  手紙沢山有難うございます。いつも嬉しそうに、独り占めしてにこにこ読んでいます。  歌があると嬉しそう。  沢山書いて、沢山詠んで下さい。  さく うた まんてん    ちかちゃん、この頃よく眠る。やっぱり、色々疲れるみたい。でも眠るのだって体力要る。頑張って、生き生きと過ごしています。  目を開けた時、写真があると嬉しいみたいで、見える位置に朔さんと陽まりの写真を置いています。  朔さんのマフラーに包まれてるちかちゃん、  とても可愛い。  さく ひまり  あいしてる  独居房に空調設備はない。冬の兆しは、居所に忍んで来る風の凍えた刃からいち早く感づいていた。  ここでは、外を見たくて、誰かを想って、 眠れなくて身体を起こし窓辺の景色にそれを托したくとも、総て許されない。  俺の不自由など、どうだって良い。  俺は、今この時こそ、俺の罪を、 捨てた筈なのに、なおも根深く息づいている俺の存在意義、根幹に、深く突きつけられている気がする。  この、昏く、冷たい、狭く湿った色相のない巌窟のような場処であっても、  横たわった身体の深奥で、耐えず、未だに心の臓へ(ぬく)う血液を循環させ、脈拍つ鼓動を保ち続ける、生命(いのち)。  いつだって、そうだ。  この血潮を、引き換えに、残らず注いでかまわないと、そう想ってやまない存在はいくへも居たのに、  そう願ってきたのに、繰り返し、 いつだってそれは風のように攫われて、叶えられないんだ。  神さま なんて存在しない。  気まぐれな信心さで、縋るからではない。  いない。そう思い知らされることは、幾度もあった。    それよりも一層、見えもしない誰かに、 確かに喪いたくないひとを、託したくないからだ。  喪いたくない、かけがえのない、唯ひとつのそのひとを、 誤魔化しなんかに頼りたくない、俺はいつだって、 心の底から信じていたいんだ。

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