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いくへもの景色
——陽まり。ママに会いたいか。
そうだよなあ。パパはいつだって、家でゆっくり、あんなに可愛いお前の顔を、真綿みたいなその頬を掌に挟んで、話を聴いて、お前を膝に乗せてやるのも束の間で、
そうしていたとしても、心の底から、その根を横たえることが出来ていなかった気がする。
でもママとふたり、俺を少しも詰らず、仲間外れにすることもなく、
いつも温かく迎えいれてくれて、姉妹みたいに、仲良く頬寄せ合っていたもんなあ。
ママを、一緒に連れて行ってやりたいのにな。
考えないで。千景には、とうに釘を刺されている。
陽まりにこの瞬間も会いたいのは、私も同じ。突き刺さるほど痛いくらいに同じ。
でもひとの生きる道を、自分だけの感情で早めたり捻じ曲げようとしないで。誰かのためだと、無思慮に覆い被せようとしないで。
決まっているのかは判らない。 でも、辿り着く先は、あるの。
あの娘 は、本当に優しくてつよい子。
私たちのことを、解ってくれている。
信じてあげて。甘えさせてあげるのは、その時でいい。
今だってここに居るんだから。いつだって傍にいて、私はあの子のことを抱きしめてあげられる。
千景は、どうしてあんなに靭 く、凛として立っていられるのだろう。
信じる。ひとの、言葉と書く。
その意味を信じて、会えない、顔を見ることも出来ない、ふれることが出来なくとも、と手紙を書き続けた。
返事は戻るか判らない、だが共にあると、千景とこころは常に溶け合っていると、書き続けた。
愛してる 愛してるったら 愛してる
歌なのか戯言なのか、彼女にしか見せられないようなことも、散々書いた。
それが本当に彼女の携えるものになっているのか、それも、いよいよ芯が覚束なくなってきている。
彼女のことは、変わらず絶えることのない、光のように信じている。
だが俺が、俺自身を信じるという支えが、こんなにも心許ない。
ひとの、己の生き着く先を、明確な輪郭 で捉え、容 れることの出来る人間は、どれ程にいるのだろう。
……天川 は、本当に強かったんだな。
あの若さで、遺す想いを、漏らさず放 って、置いてくることが出来たからかも知れないが、
それでもなお、歳を幾年経ても、彼には遠く遠く計れないほどに及ばない。
彼だからだ。あの潔 らかで、透るような黒い瞳に浮かぶきらきらしい魂は、未来に渡り無二で、
ずっとこの胸に、誰も踏みしめることのない尊 く清浄なしるしとして、静かにその聖域を開け放してくれている。
桜花が咲く樹に刻んでくれた、あの優しい歌と、涙のように翻って注いだ、花びらとともに。
千景を想うと、捻れた黒い、醜く撚 れた糸の塊のような慄きと怖れが襲ってきて、
彼女のその姿と光まで見失ってしまいそうになる。
だが、彼女と出会ってからずっと、彼女に抱き続けている変わらぬ指標が俺にはある。
千景は、いくへもの、輝かしい、これを見るために生まれてきたのだと繰り返しことほげるほどの、
素晴らしい千の景色を見るために生まれてきた存在だ。
今までも、どうかこのひとときも、いつまでも、
彼女のその閉じた瞳 裏の先にまで、まばゆいばかりの景色が一面に拡がっていることを、
願って、乞うて、祈り続けてただやまない。
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