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聖夜、前夜

 冬の深淵に降りつつある。一日を通して、寒さに皮膚の萎縮が和らぐ時間を見つけるのが最早難しい。  冬の底は、そこから長く昏い洞穴を進み続けるのに似て、寒さを()ける匂いたつ春までは、まだ遥かに遠い。  けれども、イヴ、クリスマス、年越し。  (ふる)い年への餞にか、世間の繁華は最盛を迎える。  塀のうちでも、ささやかな心配りか、配給の食事にその彩りが少しばかり添えられ、断たれていると決めていた世情との繋がりが、思いがけず目に見えるかたちで浮上させられる。  だが、外に家族を持つ囚人(もの)は、共に越せない虚しさ、失くした過去を想い起こすのか、それを受けとる彼等の表情は愁心を帯びたものが多い。  虚しさ、沁みいるように伝わる。だとしても、こころは愉しく、温かな頃の情景を求めるように誘われた。  陽まりに最後に贈ったクリスマスプレゼントは、何だったかな。  ティティがいなくなってから初めての聖夜で、希望を聞いて、同じくらいの大きさの、白い猫のぬいぐるみだった。  愛しさをうずめるようによく抱きしめ、嬉しそうに新しい友達にしてくれていた。  千景には、馬蹄のモチーフに星屑のようなダイヤを散りばめた、純度を抑えたゴールドのネックレスだった。  家庭を持ってからも、そこに嵌まらないものを贈ると千景に喜ばれた。  結婚前のいつかのイヴ、宵闇に泳ぐように入ったホテルのバー、そぼるような照明が半身に滴り、 深海を想わせるピーコックグリーンのカクテルドレスの襟ぐりの上、一貫して顔の小ささが際立つ顎の横で切り揃えられたボブ、白い鎖骨の窪みに一粒ダイヤのネックレスが映えていて、白ワインを傾け何かを語っていた彼女の姿は、 耳に入る内容は文字通り話半分だった、繰り返し憶え返すほど、美しく煌めいていた。  タイピングを誤りそうになり、ボックス内の式を確認するように背筋を伸ばす。  この頃の所務作業は、垣間見える仮釈放を据えて、所内の幹にまつわる経理作業や外部から委託されたファイルの編集など、より社会の実務に即したものを、園山たちが担わせてくれるようになっていた。  長らく触れる機会を逸していたパソコンも、かつての事務作業を、元いた水の感覚が血へも巡っていくような、運ぶ指のまま羅列していく文字、複数のディスプレイをまたぎ展開する画面、マウスを包む掌の感覚も違和がなくなるのにそう時間は取られなかった。  ……こういうことこそ、天川にやらせてあげたかった。 『俺、何も出来ないよ。パソコンも別に得意じゃなかったし』  パソコンを扱う受刑者を遠目に、頓着しない表情で呟いていた。  あかみどり クリスマスなぜ あかみどり?  末尾に、可視化できるほどの疑問符を浮かべた黒瞳をして、寒さで少し赤剥けた鼻先と頸を傾げて見上げてみせる。  所内、共に触れた折々の事柄、それがまた時を経て重なったり、鬱蒼とした闇にこころが沈みそうになると、 自然彼を想い返すのがいつの間にか身についていて、切なさ優しさ入り混じるも、口許とこころがまた綻んでいた。  視線が繋げられたままでいた気がして、作業ルームの扉口を振り返った。  官服姿の園山が、元来の対象物を確と見定める眼をして、だのにどこか浮遊した角度で俺を認めたまま、佇んでいる。  何か……? らしくないその逸れたこころを、手首から引き戻すように俺は目で問うた。  密かに我に返ったような園山の眼に、差すような光が戻る。 「——高階(たかしな)、 面会だ」  真直ぐに、俺を見据える黒い眼差しは変わらない。  自負に溢れる、精気。その色は、静かに、真摯に、沈着に地へ足を着けている。 「仁科(にしな)未景さん……」

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