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断罪の壁

 未景(みかげ)が面会に来るのは、初めてのことじゃない。  当然のように千景に伴われて来訪し、拘置所に似つかわしくない明るさを、二人揃って心ほぐす賑やかでもたらしていた。  どうという、感情は抱いていなかった。  何という、予感も持ち合わせていなかった。  ただ未景が来たと、その事実に応えて、ただ園山の後に続いて、退室した先の廊下を歩いて行く。  面会室への入り口を潜るように入り、左方の無色なアクリルの壁面に目を向ける。  中央の椅子に、腰掛けて俯けた未景の白い横顔がある。  彼女に会ったのは今年の五月だ。陽まりの命日にいつも千景と墓参をし、ここにもその報告に来てくれるのを恒例としていた。  半年前と面立ち、千景より少しだけ長い顎下までの髪は変わらない。  その栗色の髪の隙間で、静止していた横顔が、俺の入室に気付くと、ふる、と顎が微かにふるえた。  髪がよれて、上向けた顔のなかにある、昼夢でも浮かべた湖面のような瞳差しが、傾いて俺の顔を捉えた。  ——みかちゃん。  そう、胸中で発した俺の呼び掛けは、何故か平淡な狭間に圧せられ、浮上してこなかった。  未景は、蝋燭のゆらぎのように腰を浮かせ、俺を見つめたまま、後方へ覚束なく退いた。  彼女の上半身から、その先までが視界に入る。  黒いノーカラーのコート。前の開きは閉ざされたようにベルトで遮られ、 その裾から覗く、礼装を想起する硬質な素材のスカート、脚を包む装衣、パンプス。  彼女の肢体がそうであるかのように、一筋の艶も生じない、溶けた黒の一色だった。 ———喪服。  音のない砂が溶けていく感触が、双腕を包み込んでいく。  すう、と明確な意識や情感も、血の辿る道筋もとうに去って、視面が翳りゆき、 ただ、前面に映る未景の面持ちを、見守った。 「さ、 朔さ……っ……」  何かを発しようとして、まるでかなわなくて、 ぶるぶるとおこりのように震える未景の瞳から、きっと熱いだろうと想える涙が奔流のようにあふれ出して、 その同じ奔流が口からも留まらないのを抑えるように、未景は溺れそうな口許を押さえた。  足許から、崩折れそうになる。  駆け寄って、彼女に手を差し伸べた。  見えない無機質な壁がただ反射を伝える。  いつだって、そうだ。  この壁を、取り払えたらと、願って、諦めて、それが当たり前になって、また口惜しくて、狂おしくて。  だけどこの壁を通してでも、良かったんだ。  その温もりと、笑顔を、彼女の輝かしい生命(いのち)のきらめきを、確かに感じとることが出来たのだから。  もう、なのか。まだ、 駄目なのか。  探したくて、どこまでも平坦な、まさに俺に下された審判のような、全ての生を吸い尽くすその壁に、俺は掌をついた。  探していたその場所に、 未景は手を添えてくれた。 「ごめん、…………ごめん……っ」  許しを乞うて、この総ての状況が覆されたら、どんなにか良いのに。  許して欲しい。ただ、ゆるしてほしい。  彼女は、赦してくれた。  だけどそれだけじゃ、足りない。  寸分も足りないから、ただ、乞う。  俺の罪を。ゆるしを。俺の過ちを。  本当は、戻って来て欲しい。  だけどそれを願える価値など、俺には毛頭ない。  何も告げることが出来ず、未景は唇を覆っていた手を板にしがみつくように付けながら、童女(こども)のように、両の瞳から大粒のしずくを降り零しながら、声をあげてしゃくりあげた。  その掌が、透明な塀沿いにずるずるとこぼれ落ちていく。  俺は、その掌を掬い上げようと、手を、その掌に押しつけたのに、その熱は何かに引きずりこまれるように落ちて行って、 また目の前のひとを、俺はまた目の前で崩折れていくひとを救うことが出来ないのかと、 気付いたら眼球のうちから血液のように熱い流動が決壊してきて、邪魔で醜くて仕方ないのに、拭えないままに、 だのに未景は、机に肘を支えられながらも、地にその肩を伏しそうでも、透明な壁にしがみついて、俺の掌に、()を伝ってくれた。  温かかった。

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