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 ***  助手席に戻っても茫然としていた。  車を出すのかと思ったら、桐生が凛那の頬を羽根のようなタッチでなぞる。目尻からゆっくりとすべり、顎の上に指先を留める。肌の上に線を描いて、痺れるような感触が残った。 「涙の跡がある」  悲しみとショックから癒えていない凛那は、物憂い気分で視線だけを向けた。包み込むような濃紺の瞳に捉えられる。 「嬉しそうに会いに行ったのに、どうして?」  その穏やかな声があまりに深いから吐露したくなる。  なにもかもをぶちまけて、なんとかしてくれとすがりたくなる。  桐生のことだから慰めようとしてくれているに違いない。けれどそんな慰めをもらうのもまた、自分を悩ませるだけなのは分かっていた。雅子があんな状態になっているのに、自分だけ慰めを得て救われるなんて間違っている。そう自分を責めたくなるだろう。  桐生の温かい視線と、彼の気持ちをダイレクトに伝えてくる指先から逃れたくて、そっぽを向いた。  放っておいて欲しい。そう思った。  凛那の気持ちを察してか、桐生も口を閉ざし、車を発進させる。  夕空を覆う雲は再び厚くなり始めていた。車内はエアコンで暖かいが、外気は夜に向かってどんどん気温が下がっているのだろう。 「水族館に行かないか」  突然の誘いに唖然として振り向くと、軽快な微笑みを浮かべた横顔が目に飛び込む。 「…今からですか」 「ああ、そうだ」 「こんな時間から入館できる水族館なんてあります?」 「品川にある。夕食もとろう」  品川ならここと渋谷の途中だから、足を延ばす必要もなかった。  水族館なんてしばらく行っていない。どんな場所だったか忘れかけているほどだ。 「あそこはクラゲがいいんだ。明日は休みだろう。のんびりと愉しまないか」  なんだか狐に抓まれたようだったが、断る理由もなかった。 「いいですよ、オレはなんでも」  もっとも水族館などで自分がどれほど楽しめるかは怪しい。  それに「クラゲと桐生」が「クロと桐生」と同じくらいに結びつかない。今日は桐生の意外な一面をいくつも見せられている気がする。  十時まで営業しているという水族館は、品川駅前に連立する高層ビルの一つに組み込まれているという。小ぶりな割に展示している種類は豊富らしい。  夜遅くまで営業するなどいかにも都会の水族館っぽいが、今も時間が時間なだけに大人のカップルが多く、平日だからか人垣ができるほどの込みようではなかった。  ちらちらと視線を感じるので、シルバーとレッドという自分達の髪色が浮いているのだろうと思った。こっそりそう桐生に打ち明ける。 「視線を集めているのはお前が綺麗だからだ」   平然と言う。キザというかマメというか、そのプレイボーイぶりに呆れるのを通り越して感心してしまう。  きっとここは彼のデートコースの一つなのだろう。どうせどこでもモテまくっているに違いない男だから、誘ってもらえて光栄と受け取ることにして、できるだけ楽しもうと決めた。入館料も奢ってもらったのだ。  見ごたえのある展示と滅多に来ない場所に、自然と凛那のテンションも上がっていた。  ショーが始まるとイルカ達は芸達者だった。技がひとつ決まるたびに観客から大きなどよめきと拍手が起こる。  一体どれほどの訓練を受けたのだろう。その出来栄えに感動しながら目を丸くしている凛那を、桐生が眺めていたらしい。周りの歓声が沸き立ったのを見計らって、耳元に唇を寄せてきた。 「そんな夢中な表情もたまらなく美人だ」  ぎょっとして視線を送った。余裕のアルカイック・スマイルを浮かべて横目を流してくる。  本当に困った男だ。こんなじゃイルカに集中できなくなってしまう。 「ちゃんとイルカ見てます?」  皮肉たっぷりに尋ねてやった。 「イルカに反応しているお前を見ているほうが楽しい」  などと邪なことを言い出す。めちゃくちゃだと思った。

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